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平岡隆二 『南蛮系宇宙論の原典的研究』

  • 平岡隆二 『南蛮系宇宙論の原典的研究』(花書院 2013年)
平岡さんによる待望の一冊。収録されているもののなかには、すでに当ブログでご紹介しているものもありますが、改めて読みなおしても面白かったです。1章、2章についてはこの記事の末の関連リンク集からご参照いただくとして、とくに1章で触れられている、ヨーロッパの知識体系(とくに宇宙論)を日本に広めることで、キリスト教を広めようとした16〜17世紀のイエズス会の戦略は、いわば、理性による信仰の書き換え、とでも表現ができるでしょうか、これについてはまた少しコメントさせていただきたいと思います。

そもそも信仰心とは、論理的なものから跳躍したサムシングであるように思います。たとえば、現代において、エセ科学やニューエイジに熱心な人に対して「それは科学的に間違っている」と説いても、その熱を容易に冷ますことはできません。各種SNSにおいて、そうした無為な熱冷ましは観察できるますければ、どうしてその試みがうまくいかないか、を考えるにあたっては、本書で言及されているイエズス会の成功例を参考にするとよいのかもしれません。そこでは、宣教師によって説かれた、論理的な天体の運行に関する説明が、説明の受け手である日本の学者(とくに僧侶)にとって、驚きとして体験されていました。この驚きによって、信仰が書き換えられる契機が生まれている。また、その基盤として宣教師たちは日本人の探究心・知的好奇心を報告してもいます。

宣教師たちはこうした日本人の反応から布教戦略を組み上げているわけですが、マーケティング3.0(笑)的な言葉をつかえば、当時のイエズス会はカスタマーに素晴らしいエクスペリエンスを与えるマーケティングをおこなっていたとも言えましょう。逆に、いま(いささか流行遅れの例ですが)『水からの伝言』を信じる方々に対して「水にキレイな言葉をかけても、科学的には○○という理由で、キレイな結晶ができない!」などと熱心に説明したとしても、それはマーケティング1.0的な「良い商品を作って、その素晴らしさを広めれば売れる」時代のマーケティングに過ぎない、と評価できる。おそらく、その受け手は科学的に間違ったものによって、素晴らしいエクスペリエンスを与えられたからこそ、その道に進んでいるわけでしょうから、それと同様かそれ以上のエクスペリエンスが要求されるはずなのです。

さて、多言を労しすぎましたので、本書について話を戻しましょう。1章以降は、文献の成立や流布をあつかった記述がつづきます。結論部をのぞいた各章を大きくわけてテーマをつけるのであれば、2〜3章は「西洋から日本へと持ち込まれたテキストの成立史」、4〜6章は「西洋からの文献が日本でどのように広まったか」とできるでしょうか。個人的に興味深かったのは、4〜6章において、文献への書き込みなどからも拾われている「当時の日本人が西洋の宇宙論をどのように受容したのか、どのようにテキストを読んだのか」の記述でした。さまざまな写本を細かに参照し、文献の系統図を描く労力にも頭が下がる思いですが、欲を言えば、西洋の宇宙論受容が日本の知識人になにをもたらしたのか、という「この先の展開」にも期待したいです。

なお、今週末の4/27(土)15時ぐらいからインターネット上で、クニ坂本さんヒロ・ヒライさん、そして僭越ながら私による鼎談形式の著者インタビューが開催される予定です。Google ハングアウトをつかったこちらのインタビュー動画は、Youtube上のこちらのページで公開される予定です(リアルタイム配信もあるそうです)。


追記:インタビュー動画がYoutubeにアップロードされています。わたしは下の小さな画面の左から2番目のなかにおります。

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