日本が西洋と接触を持ち始め、本格的に西洋の文化が流入しだした頃のインテレクチュアル・ヒストリーを研究しておられる平岡隆二さんの論文を読みました。平岡さんのお仕事については以前にもご紹介させていただいています。平岡さんは、今年度から熊本県立大学のほうに移られており、ブログもそれにともない(?)移転されています(さっき知った。そして、神戸市立博物館での南蛮美術展について書かれているのが目に入って、読み逃してた! とショックを受けていた)。南蛮モノの文化に興味がある方には、目が離せないブログでしょう。
この論文の内容は、西洋の自然科学をまとまった形で日本に伝えた最初の書物であるペドロ・ゴメスの『天球論』がどのように書かれたのか、そしてその特徴とは、を明らかにするものです。この本はイエズス会の宣教師たちが日本で教科書として使っていたものでした。16世紀の後半にやってきたイエズス会宣教師がなぜ、日本に宇宙論や自然科学を教えようとしたのか。この点は「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」で詳述されていますが、宇宙や自然と言った見える世界を理解することで、見えない世界の領域への認識へ至らせる、という教化戦略があったからです。論文のハードコアな部分である欧文原典から『天球論』に影響を与えたであろう書物を分析している箇所は、私のようなボンクラ好事家には敷居が高い感じですが、西洋の学問の伝統と対比すると、ゴメスは日本向けに本の内容をアレンジしている、という記述はとても面白く読みました。
また、ペドロ・ゴメスのバイオグラフィーの部分では、当時のイエズス会の修道士たちがどのような教育を受けていたかもうかがえる。ゴメスは大変に優秀な先生だったそうで、20代のうちからその界隈でブイブイ言わせていたみたいです。で、彼がイエズス会の学校であるコレジオではどんなことが教えられていたのか、なんですが、これはギリシャのアカデミーのカリキュラムを引き継いだものだったのですね。たまたま、最近アヴィセンナについての本でもアカデミーの伝統について読んでいましたから、このあたりはスムーズに読めました。これを押さえておくと、ゴメスの『天球論』の日本仕様ぶりもより面白く読めると思います。論文からもこの日本仕様についての記述も引用しておきましょう。
プトレマイオスからサクロボスコへとつらなる天文学と、アリストテレスからスコラ哲学へとつらなる自然学(あるいは自然哲学 Philosophia naturalis)の伝統は、それぞれ独立した別個の伝統を形成しており、大学の教養課程においても個別に教授されるのが常であった。したがってその両者を、初等教科書とは言え1つの書物の内に結合させたところが、ゴメス「天球論」の最大の特徴と言えるのであり、管見の限りではあるが、このような2部構成をとる教科書は同時代ヨーロッパには見いだされないのである。なぜ、こんな独自のものが書かれたのか。論文では「当時の日本人が天文学と気象論に特別な関心を寄せていた」という報告が複数あったため、自然な流れであった、という風に分析されています。
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