しかし、その「ほとんどなにが書いてあるかわからない」というところも、このテキストに向き合う気を失わせる理由のひとつである。あまりに気が向かないので「聖書がらみの本」のほうにやる気をだして読んでしまっていた。
- Beryl Smalley 『Study of the Bible in the Middle Ages』
- 中世の聖書研究に関する研究書
- 長谷川修一 『聖書考古学: 遺跡が語る史実』
- 聖書に書いてある時代や出来事、場所の同定をおこなう「聖書考古学」という学問の紹介
- 山形孝夫『聖書の起源』
- この本は、聖書を読みはじめる前に読んでいた
いろいろ読んでいても旧約聖書の大部分は何が書いてあるかわからない。「モーセ五書」と呼ばれる創世記や出エジプト記が含まれている部分は、ある民族の歴史なんだな、ということぐらいはわかり物語的にも読める。他にも物語的な部分はあり、そういうのは割とスムーズに読めるのだが、問題は「それ以外の部分」が多すぎるのだ。また、わたしは大きな勘違いをしていて「聖書」のなかで「旧約」と「新約」は同じぐらいの分量のものだと思っていた。
実際はこれぐらい分量が違う(右側が旧約部分。聖書の大半は旧約聖書だというのは世間の常識なんだろうか……?)。永遠にこのなにが書いてあるかわからない文章が続くのでは……と思うと、何度も投げ出したくなった。聖書 = 牧師さんや神父さんの説教のときに参照するテキストと思い込んでいると、さぞかしありがたいことが書かれまくっている自己啓発本みたいなものかと思うじゃないですか。全然そんなんじゃないんだよ。「主(=ヤハウェ)」が、目にかけてやっている民草を裁きまくることばかり書いてある。この主は大変嫉妬深い存在で、目にかけてやっている民草が他の神を崇めたりすると怒り狂い、一族根絶やしにしたり、イナゴの大群をよこしたりと大変に行動が激しい。あまつさえ、サタンにそそのかされて大変信心深い男の信心深さを試すために、その男に山ほど災いを与えもする。民草は争いばかりしているし……。
なぜ、こんなテキストが読み継がれてきたのか不思議だが、なにが書いてあるかわからないからこそ、読み継がれてきたのかもしれない、とも思う。バッハの作品に隠された謎が人を惹き付けるように(たとえば、新約聖書に書かれた内容はすでに旧約聖書で予言されていた! みたいな『ムー』かよ、みたいな読みが歴史上マジにおこなわれていたわけで……)。
なお、いくつかある聖書の翻訳のうち「新改訳」を選んだのは、当時住んでいたところの近所にあった教会の牧師さんが「これが聖書の原典に一番近い訳だから」とオススメしてくれたから。「外典」と呼ばれている部分は収録されていない。どうせ信仰と無関係に読んでいるのだから「外典」を含んでいるものを買った方がお得だったかもしれない、と今になって思う。
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