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Negicco / サンシャイン日本海

サンシャイン日本海  通常盤
Negicco
T-Palette Records (2014-07-22)
売り上げランキング: 9,441
昨年大変話題になったドラマにご当地アイドルをテーマにしたものがあったが(一切観ていない)Negiccoは新潟のご当地アイドルだそうである。なんでも地元のJAが名産のネギをPRするために結成した、とかで、我が郷土であるところの福島における「ミス・ピーチ」的なイキフンも感じられ、そのネーミング・センス的にもJA感が溢れているところが、敬して遠ざけたくなるポイントでもあるのだが、最近の地下アイドル・ブームに乗ってポッとでてきたわけでも「おらが村でも『あまちゃん』やるべ!」的なノリで出てきた方々ではなく、なんと結成から11年目という年季がはいったグループなのだそう。

日本のアイドル・ソングが、大変批評に耐えうる音楽ジャンルのひとつになっていることは重々承知であるのだが、どうも、アイドル・ソングをただ消費するだけじゃない、うむうむ、俺はわかってるぞ、的な語りが苦手であり、そうした文化に参与することすらもためらわれ、これまでレンタル落ちのきゃりーぱみゅぱみゅを回収したり、回顧的につんく♂の素晴らしいお仕事を振り返ったりする程度にとどめていたのだが、ここにきて、なぜ、Negiccoかと言えば、この「サンシャイン日本海」というシングル曲がオリジナル・ラブこと、田島貴男プロデュースだったから。

田島氏とNegiccoメンバーによる熱い対談はこちらで読める。田島氏の楽曲は上記のインタビューでも語られている通り、歌謡曲、ノヴェルティ・ソングのモダナイズ、とも解釈でき、大変面白く聴いた。が、本当に度肝を抜かれてしまったのは、カップリングの「フェスティバルで会いましょう」、そして過去楽曲のリミックスのほうなのだった。なんだこれは……すげえ、良いじゃないですか、と。乱暴に言えば、シティ・ポップスのモダナイズであり、つんく♂以降のアイドル・ソングのソフィスティケイトされた世界が提示されまくっており、とても地元PRアイドルという出自が信じられず、気がつくとわたしは、過去のリリース作品もひとしきり購入して熱く聴いていたのだ。

Melody Palette
Melody Palette
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Negicco
T-Palette Records (2013-07-17)
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ときめきのヘッドライナー(通常盤)
Negicco
T-Palette Records (2013-11-06)
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トリプル!WONDERLAND 通常盤
トリプル!WONDERLAND 通常盤
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Negicco
T-Palette Records (2014-04-16)
売り上げランキング: 173,718
小西康陽、西寺郷太(ノーナ・リーヴス)、矢野博康(元Cymbals)、サイプレス上野とロベルト吉野、tofubeatsなど過去の制作陣も、あるリスナー層を本気で殺しにかかっているとしか思えないラインナップなのだが、ずっとこのグループを支えているプロデューサー、connie氏の楽曲が、ゲスト製作陣以上に突き刺さる。とくに「ときめきのヘッドライナー」のカップリング「さよならMusic」が激烈に良い曲で、冒頭20秒ぐらいで涙が出る(ベースは、KIRINJIの千ヶ崎学で、KIRINJI弟脱退ツアーのDVDコメンタリーで散々イジられていた『モテるベース』が堪能できる)。

(小西康陽提供による楽曲『アイドルばかり聴かないで』。アルバム『Melody Palette』のなかで聴くと、あまりにいつもの小西仕事という感じがして浮いてしまうのだが、この歌詞の強度は素晴らしすぎる)

泣きながらご当地アイドルの楽曲を聴いているアラサー男性の姿は傍目にみて、法的に規制されても文句は言えない気持ちが悪さがあるけれど、素晴らしい楽曲がシングルで、小刻みに飛び出してくる感じは、大人が、こどもの頃に買えなかったおもちゃを今好きなだけ買えてしまう、という消費の愉しみを実感させてくれる。魂のつながりを感じさせる仙台の友人が時折苦々しく「AKBは曲は超良いのに、アレンジ/編曲が最低すぎる」と語っているような問題も、ここでは皆無であり安心だ。

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