アントン・ブルックナーと時間体験

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ブルックナー:交響曲第7番
ショルティ(サー・ゲオルグ)
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 通勤中にアントン・ブルックナーの交響曲第7番を聴いた。以前はこの作曲家に対して「なんだか良くわからないなぁ」という気持ちでいたのだが、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキのブルックナー演奏に生で触れてからというもの、進んで「聴きたいなぁ」という風に思うようになった(以前は、めったに聴こうと思わなかったのだ)。


 一度しかブルックナー作品の生演奏聴いていないという身分でこんなことを言うのも生粋のブルックナー・ファン(俗にブルヲタを呼ばれている……)の方からすれば「けしからん」という話かもしれないが、クラシック音楽が好きだ、と自称する人であれば一度ブルックナーは“体験”しておくべきだ、と思う。できれば金管が巧いと評判のオーケストラが良い。ホールの空間いっぱいに広がるフォルテッシモを聴くと快感を通り越した感動がドッと押し寄せてくる――「ブルックナーの音楽は宇宙だ!」と熱弁する人の気持ちが理解できるようになる。たぶん。


 私が聴いているのはサー・ゲオルグ・ショルティ指揮によるウィーン・フィルの演奏(1965年)。この録音が世間では、というかブルヲタ界ではどのような評価を受けているのか知らないが、私はウィーン・フィルの弦楽器がとても好きなので「良い演奏だなぁ」と思って聴いている。値段も1200円で安かったし。もっとも、今現在スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン放送交響楽団の演奏が同じぐらいの値段で買えるので、そちらのほうがオススメかもしれない。ちなみに、ブルヲタ界隈ではスクロヴァチェフスキは奇数番の交響曲が得意と評判である。



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(映像はセルジュ・チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルの演奏)ところで今日この作品を聴いていて「ブルックナーは、時間の操作を意識的におこなった初めての作曲家なのではないか」ということを、ふと思いついた。彼の作風を暴力的なフレーズで表すなら「退屈と恍惚」とでも言えるだろうか――1曲で演奏時間が60分を越えるのはざらで、しかもそのなかで繰り返しがたくさんあり、演奏する側もうんざりするぐらいの退屈が彼の作品には含まれている。しかし、その合間合間に恍惚が挟まれることによって、作品は鑑賞に堪えうる強度を持つのである。



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(引き続き、チェリビダッケの映像)この退屈と恍惚を、それぞれ「長い時間」と「短い時間」に言い換えても良いかもしれない。この2つの時間をブルックナーはさまざまな手法を用いて操作している。たとえば、長い時間から短い時間へ音楽が推移する際は、同じ音形を執拗に繰り返し、ひとつの山場へと音楽を向かわせていく(これはほとんどミニマル・ミュージックのようにも聴こえる)。頂点へ至るまで期待感を聴き手にいだかせながら――この期待の持たせ方が本当に巧みだ、と思う。



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(引き続き、チェリビダッケの映像。まだ同じ楽章……)もちろん、短い時間から長い時間へという逆の推移も存在し、また、徐々に音楽が変化していく手法だけではなく、唐突に切り替えが行われる場合もある。こういった時間感覚のうねりを持つ作品を書いた作曲家の名前は他にパッと思い浮かばない。ベートーヴェンやブラームスの作品ではまず聴くことができない極めて個性的な特徴である気がする。



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(変ってヘルベルト・フォン・カラヤン/ウィーン・フィルによる交響曲第8番。カラヤン美学で構築された映像が素晴らしい)そう考えると、ベートーヴェンやブラームスの作品が「大きな物語」的であるのに対して、ブルックナーの作品はそういった枠組みから実は大きく脱却していたのではないか、とも思えてくる。一見その長大さからベートーヴェンやブラームスよりも「大きな物語」を構築しようとした風にも聴こえるのだが、実は彼らとはまったく異質な作品として捉えられるのではないか、と。その異質さはロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』と重ねられなくもない。



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