スキップしてメイン コンテンツに移動

ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2――エッセイの思想』




ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)
ヴァルター ベンヤミン
筑摩書房
売り上げランキング: 241524



 ひさしぶりに思想っぽい本などを、と思いヴァルター・ベンヤミンを読もうとしてみた。この思想家/批評家については学生時代にかった同じちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション1』を何度か読んで「これは難しい……生理的にあわないのかもしれない」と敬して遠ざけてきたのであるが、ここにきてなんとなく読んでみたら初めて面白く読めた。比較的短い批評や小論などを集めたこの『ベンヤミン・コレクション2』はもしかしたら一番ベンヤミン入門に適しているのかもしれない。




 まったく知らない、名前すら聞いたこともない作家についての話を読むのはなかなかくたびれたけれども、一番最初に収録されている蒐集家のフェティッシュな快楽と、蒐集物と蒐集家の関係性を論じた「蔵書の荷解きをする」という原稿から惹きつけられるものがあるし、カフカ論やプルースト論などもとても面白く読めた。ベンヤミンと親交を結んでいたテオドール・アドルノもプルースト論を書いているが*1、アドルノとベンヤミンの文章を比較するとはるかにベンヤミンのほうが優れているようにも思う――ベンヤミンの批評のほうがプルーストをうまく媒介している、というような意味で。単にベンヤミンの翻訳者のほうに、流麗な日本語が書ける人が集まってしまっているせいかもしれないが、喩えるならアドルノの文章がプルーストのひきこもった部分と繋がるのに対して、ベンヤミンの文章はプルーストの華々しい社交界での経歴と繋がっているかのようである。この本をきっかけにまた『失われた時を求めて』を読もうかという気になったのも良かった。





 しかし、これら以上に個人的な興味を惹いたのは「翻訳者の使命」という小論である。このなかでベンヤミンは翻訳の限界についてこのように述べている。



翻訳において個々の語に忠実であれば、それぞれの語が原作のなかにもっている意味を完全に再現することは、ほとんど必ずといっていいほどできない。なぜなら、語の意味は、原作に対するその詩的な意義からすれば、志向されるものにおいて汲みつくされるものではなく、ある特定の語において志向されるものが志向する仕方にどのように結びついているかによってこそ、その詩的意義を獲得するからである。(P.404 強調は引用者)



 ここでベンヤミンが言っていることを、少し細かく説明してみると「文学作品における言語の意味(言語が指し示すもの)とは、言語の音(志向する仕方)と不可分に結びついており、翻訳はその結びつきを解いてしまう。よって、“意味”は完全に再現することはできない。結びつきを解いてしまった時点で、言語の意味は変容してしまうのだ」ということになるだろう。いかに文法的・実際的な意味的に正しい翻訳がおこなわれたとしても、それは完璧に、原作のなかにもっている意味を再現することはできない。だから、翻訳者はあらかじめ宿命的にその行為の失敗を運命づけられた存在である。しかし、ベンヤミンはこうも述べている。



……ひとつの言語形成物の意味が、その伝達する意味と同一視されてよい場合でも、意味のすぐ近くにあってしかも無限に遠く、その意味のもとに隠れてあるいはいっそうはっきりと際立ち、意味よって分断されあるいはより力強く輝きつつ、あらゆる伝達を超えて、ある究極的なもの、決定的なものが依然として存在する。(P.406)



 込み入った反対語の反復によって表された「決定的なもの」をベンヤミンは「純粋言語」と名づけた。文字通りそれは言語の音や法則から分断された、象徴されたものの意味であり、文学作品の核なのだ、と彼は言った。そして、その核を解放することこそ、翻訳者の使命なのだ。ここでのベンヤミンの論法は非常に面白い。翻訳は再現する(原作に忠実である)ことを放棄しなくてはならないが(なぜならそれは必ず失敗するからだ)、翻訳をすることによって、純粋言語をあるひとつの言語に拘束された形から解放することができる、というのが彼の言い分であり、ゆえに彼は翻訳の自由を正統性のあるものとして評価した。





 以上のベンヤミンの論旨は、アドルノがしつこく論じた音楽作品と音楽批評の関係性についてと類縁性を持っている、と私は思う――というか、言っていることはまるで同じのように感じられてしまう。両者はそれぞれ、翻訳と批評を作品の本質的な意味(ベンヤミンであれば純粋言語、アドルノであれば『浮動的なもの』)を別な言語/言葉で再現することの不可能性を指摘しつつ、一方で、あたかも原作(作品)に忠実でなければほうが、原作から離れたほうが、純粋な意味を掬い取ることができる、と言っているように思う。やはりこの部分が私の興味をかきたてたところだった。






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...