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大友良英/NHKドラマスペシャル『白洲次郎』(OST)



NHKドラマスペシャル『白洲次郎』(iTunes Store)


 会社に入ってから大友良英の音楽を聴くことがめっきり減ってしまったのだけれど、今回ドラマのサウンドトラックがiTunes Storeで配信になったということで久しぶりに聴いてみた……ら、すごかった。ドラマの第一回目の放送は都合があわなくて観れなかったけれど、このすごい音楽がどんな風に使用されているのかとても気になるし、音楽単体だけでも素晴らしい。今回の楽曲群は、大友良英ニュー・ジャズ・オーケストラでの音のテクスチュアの広がりによって音楽を展開していく系の要素はかなり薄くて、もっと楽曲というか、「曲っぽく聴こえる」要素が濃い(その意味では、普通のロックっぽく聴こえるところがある)。脳裏に浮かんだのは、アート・ベアーズとかスケルトン・クルーとかレコメン系のバンドの音、というかフレッド・フリス即興と作曲が強く結びついた実験的ポップス。





 今回のサントラにはフレッド・フリスも1曲新曲を提供しているんだけれども、これも素晴らしい。フリスがシンプルなギター弾き語りで素朴に歌を歌っているのを聞いて「この人、こんなに歌えたんだ……」と驚かされたところもありつつ、彼のこういう弾き語りアルバムが出たら良いのにな、って今後が楽しみなったりもする。個人的には、フリスのこの1曲が聞けただけでも大満足なところ。しかし、これと双璧をなすようにして浜田真理子のピアノ弾き語りが収録されていて、さらに満足感を高めてくれる。ワーグナーの《結婚行進曲》の引用や、レナード・コーエン(というよりも、ジェフ・バックリィか?)の引用が飛び出した瞬間の、胸に突き刺さる感じといったらない。こんなのドラマのなかで流れたら泣いちゃうよ……。





 あと鬼怒無月率いるサルガボの演奏もこのサントラで初めて聴いた。これもネオ・ピアソラ感漂う演奏の温度がものすごく高くてエロい……。とくに喜多直毅の摩擦音が強いヴァイオリン(1曲ごとに弓の毛が4、5本切れていそうな音)がツボ過ぎる。自分にとってアルゼンチン・タンゴの何が魅力かと言えば、バンドネオンの音色ではなくてこの乾いたヴァイオリンの音色なのかもしれない、とか思った。それから、久しぶりに菊地成孔が大友のバンドで演奏するときの「いななく様な音色のサックス」が聴けたのも良かった。





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