菊地成孔 南博『花と水』

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花と水
花と水
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南博 菊地成孔
ewe records (2009-03-25)
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 CDを再生した瞬間に鳴るピアノの和音によって思い出したのはテオドール・アドルノがジャズを痛烈に批判したエッセイの一節だった。私はここで机の上にあった『楽興の時』を紐解いてその部分を正確に引用しよう――「ホットな律動法を例外として、ジャズの精妙な技術上の特色のすべてが、印象主義の様式に源を発しているのであって、印象主義はジャズというまわり道を通って始めて社会に広く受け入れられるようになったと言っても、あながち言い過ぎではないのである」。この言葉と同時に思い浮かべたのは、クロード・ドビュッシーによって書かれた水の印象に基づくピアノ作品である。ジャズ、印象主義、ドビュッシー。そして、水。よく知られているように、かのフランスの作曲家は同じ印象主義という括りで語られる同時代の画家たちと同様に、東洋への強い憧憬を持っていた。オリエンタリズム、ジャポネズム。「ジャズ・ジャポネズム最新の実践」と謳うアルバムだけはある。冒頭からこのアルバムには水が満たされていた。





 一方、花はどうであろうか。何がここでは花開いているのだろうか――まず第一に言えることは、イメージが咲き乱れている、ということだ。このことは冒頭から続けた私の他愛もない連想ゲーム(もちろんこんなものは批評でもなんでもない)からも導き出せる。そして第二に、この演奏自体に花のイメージが付与できるのだろう(ここでは水のイメージと花のイメージとが共存している)。しかし、その花は自然のなかで無垢なまま育つ花ではない。切取られ、花瓶のなかで、あるいは剣山に刺された状態で、水を与えられることによって始めて輝く花である。言うまでもなく、それは人工的に作り出された状態であり、芸術というよりかは、商品としての性格のほうが色濃く出ているように思う。





 これは芸術ではない。ここで再びアドルノの言葉を借りるならば「規格化された商品」に過ぎない。それも芸術の形式を高度に模した、限りなく芸術のポーズを取ろうとする商品である。だが、高度に芸術の形式を模した商品は、商品と区別との境界線を曖昧にさせる。それは自ずと、今日において商品ではない芸術がどこにあるのか、を問うものでもあろう。それが芸術であるか、商品であるかを区別するのは、芸術/商品の発信者がどのように制作物を区分するかに左右されてしまう。このことは音楽に限った話ではない。映画にしても、小説にしても、同じことが言えるだろう――商業ベースで制作されたクリント・イーストウッドの作品がなぜ心を揺るがすのか。このような時代をアドルノは予期できなかったにちがいない。それはもしかしたら我々のメンタリティが高度に規格化されてしまっただけの話かもしれないが。商品ではない芸術が今日においてあるとしたら、それは個人的な祈りに近いものなのではないか……などと漠然と考えてしまう。





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