アンネ=ゾフィー・ムター/バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ

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バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ
ムター(アンネ=ゾフィー)
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 先日、HMVに行った際「輸入盤が手に入るようになるまで買うのを待っていよう」と思いながら買いそびれていたアンネ=ゾフィー・ムターのアルバム(日本盤)が、2割引きになっていたので購入した*1。昨年発売されたこのアルバムでは、ムターはヨハン・セバンティアン・バッハのヴァイオリン協奏曲第1番・第2番と、タタール出身の作曲家、ソフィア・グバイドゥーリナの《今この時の中で》というヴァイオリン協奏曲を取り上げている。数年来、グバイドゥーリナへの関心を持ち続けているので私の興味は断然後者にあった。彼女がムターに献呈した作品がどのようなものであるのか。それが気になっていた。





 旧ソ連時代に不遇のときを過ごしたこの作曲家は、1980年代に入ってからギドン・クレーメルらの紹介により急速に知名度を高め、ギヤ・カンチェーリ、アルフレート・シュニトケらとともに「ポスト・ショスタコーヴィチの作曲家」と呼ばれることになった。彼女は今では現代音楽界で最も注目されている作曲家の一人である。この変化にはもちろん状況の変化(ペレストロイカとか体制の崩壊とか)の要因がある。しかし、一方で私は別な要因が彼女の作品、というか、作品作りの態度のなかにあったのではないか、と思う。





 先日私は「商品ではない芸術が今日においてあるとしたら、それは個人的な祈りに近いものなのではないか……」などと愚にもつかないような雑感を記したけれど、このとき念頭にあったのは実のところグバイドゥーリナの作品だった――ロシア正教会の信仰を作品の基盤的なテーマに選び、その世界観を音楽作品のなかで描こうとする彼女の作品は、祈りに近いものであるように思われるのだ。そこでは神と私という関係性が意識される。これはとても個人的なものとして私は捉えている。それは《今この時の中で》でも同様で、(地獄のモチーフであるという)執拗なオスティナートと、(天国のモチーフであるという)長調の広がりある和声が交互に登場するなかを、独奏ヴァイオリンが迷いつつ進み、最終的に天国的な世界へと昇華される、という構成のなかにグバイドゥーリナのパーソナリティを投射してみることができるだろう。





 そこには聴衆というものが存在しない。啓蒙すべき大衆も、アカデミックな楽壇も現れない。しかし、だからこそ、彼女が注目を集めることができた(聴衆を獲得することができた)のではなかろうか。これは他の「ポスト・ショスタコーヴィチの作曲家」にも共通して言えることかもしれないが。彼・彼女たちの作品とはどれもそのように個人的なもののように聞こえる。少なくとも西欧のアカデミックな楽壇の象徴的人物でもある、ピエール・ブーレーズとは明らかにまったく違った態度によって作曲をおこなっていた、といえるだろう。





 ただ《今この時の中で》は、彼女が以前に書いた《オッフェルトリウム》(ギドン・クレーメルに献呈)よりも優れたヴァイオリン協奏曲だとは思わなかった。結局のところ、それは個人的な好みに過ぎないが。それからムターのバッハ演奏も凡庸であるように感じた。グバイドゥーリナとバッハをカップリングする、という試みは至極真っ当なものである、と思われるのだが、いまいち引っかかるところがない。




*1:今、アマゾンで売っているのをチェックしたら1500円になっていたので少しショック





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