大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』

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増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)
大澤 真幸
筑摩書房
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 先日、会社で組んでいるバンド*1の集まりで飲んでいたときに、偶然オウム真理教の話になった。そのとき、バンドのメンバーであるひとりのオンナノコ――20歳ぐらいの――が「オウムって何をした人たちですか?」となんの思惑もなしに言った。そのなんの思惑もないところが私には衝撃的だった。だからこそ、読む順に積まれている積読本の山の真ん中あたりからこの『虚構の時代の果て』を選んだのだと思う。無論、私が受けた衝撃とは、ごく個人的な経験からくるものであろうが、このタイミングで(宮台真司と並ぶ)日本の社会学界のビッグネームである大澤真幸が、オウム真理教を取り扱ったこの著作を読まなければいけない。そんな気がした。


既に新書版で一度読んだことがあったとしても、だ。





 単なる“私語り”になってしまうけれども、私にとってオウム真理教という存在はとても大きなものである。地下鉄サリン事件が起きたのが、1995年。当時、私は小学5年生で上九一色村のサティアンに隠れていた麻原彰晃が逮捕された瞬間は、教室のテレビで観ていた。その頃は、テレビをつければオウムについての情報が入ってくる。意識をしなくても、オウムについての情報を浴びることができる。そういう時期だった、と記憶している。麻原が出馬した衆議院議員選挙の選挙活動の映像は、ほとんど毎日放送されていたのではないだろうか。そのおかげで、ひょうきん者のクラスメートは人差し指を立てた手を空中でグルグルと回しながら「ショーコー、ショーコー、ショコショコ……」と歌うだけで、クラス中からの喝采を受けることができた。





 しかしながら当時から私はあの時期のオウム報道に対して、強い違和感を感じていた。とりわけ、教団施設の付近の住民が起こした「オウム教団施設退去デモ」に、私は強く反応した。私が感じていた違和感を端的に表す言葉は『虚構の時代の果て』でも述べられている。「……オウムを正面から批判したり攻撃する者の方が、しばしば、オウムに似てくるという構図」(P.281)。これである。オウム真理教という組織は、暴力を行使し、そして殺人を犯した。しかし、それを糾弾する側もまた暴力的に糾弾をおこなっているのではないか、だとするならばオウムも、それを糾弾する側も限りなく同じ立ち位地にいるのではないか。もっとも教団施設の立ち退き活動が活発な地域として報道されていたのは、たしか中野区だった気がする。中野区の住民が「オウム、出て行け」などと書かれたプラカードを掲げている映像を見る度に私は「オウム信者は可哀想だ」と思った。





 そこにはオウム信者に対する一種の共感が存在していたのだろう、と今では思う。



……われわれの多くは、オウム信者についての情報を大量に集め、彼らについて知れば知るほど、彼らが大方われわれとよく類似し、われわれと近接していることを発見してしまう。(P.32)


 大澤は本の序盤でこのように書いているが、私にはそれはとてもよく理解できる。これまでに「オウム信者についての情報を大量に集め」た経験がなくとも*2。オウム信者と私の間には、距離がほとんどない、そして(生まれた場所や時間が違えば)私もオウム信者になりえた可能性は充分にある、という直観が私にはある。そして、それは私だけではないはずなのだ。オウムを糾弾する側でも、なにかの巡り合わせが重なれば、オウム信者になっていた、という可能性は充分あり得る。しかし、それは多くの場合、意識されていない。だからこそ、糾弾する側は暴力的に糾弾することができるのであり、さらにはオウム信者が可哀想なのだろう。





 誰もがオウム信者になりえた、という可能性は、誰もが地下鉄で(あるいは松本の住宅地で)サリンを吸って死にえた、という可能性とほぼ重なる。これらもまた意識されていない事柄である。事実、私にしても丸の内線や千代田線、日比谷線を利用するときに時折「ああ、ここで何人かの人が死んでいるんだな」という風に思い返すだけで、普段、(生まれた場所や時間が違えばあのときに)サリンを吸って死にえた、という可能性を忘却してしまっている。





 なりえた、あるいは、死にえた、という可能性は大澤が増補の部分で述べた以下の言葉と対応しているように思える。



われわれは、オウム事件以降、類似の犯罪、類似の暴力が反復される時代に突入した。この種の出来事が、まるで幽霊のように、現代社会に、われわれの社会システムにとり憑いている。どうして、反復されるのか?オウム事件が、真に徹底して<反復>されていないからだ、と答えたらとしたら、逆説を弄しすぎであろうか?



 この意見には全面的に同意をせざるを得ない。「真に徹底して<反復>」し、そして、それらに対する“総括”がおこなわれていない、それらを乗り越えていないからこそ、類似のの暴力は繰り返される――それらを乗り越えるために、我々は今一度<他者>を捉えなおさなければならない。にもかかわらず、我々は依然として突然現れた暴力的な他者――例えば宅間守や、加藤智大、対象を人から外せば北朝鮮、という国家――に対して、理解不能な他者のレッテルを貼り、忘却を待つだけの対処しかおこなっていない。




*1:既に脱退


*2:サリン事件について、村上春樹の『アンダーグラウンド』、『約束された場所で』を読んだことがあるくらいだ





3 件のコメント :

  1. この大澤氏の本は名著ですよね.

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  2. 何年かぶりの再読ですが、名著すぎてその後の北田暁大の仕事などはこれの反復に過ぎないような感じがしてきました。

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  3. 以下は過去に大澤真幸フリークだった者の雑感です.逆説を多用した彼のロジック(というかレトリックというか,ロジックがないようなロジックというか・・・)は,任意の社会現象に普遍的に妥当するような装いをもって語られる気がするのですが,今振り返ると,彼のロジックが通用したのはある特定の時代や社会であって(例えば,戦後民主主義の原則が徹底される中で,その原則に一見反するような現象が見られるようになった1980-90年代,というか・・・),現在の大澤氏の態度は,社会に逆説性が欠如しているにもかかわらず,それでも逆説性を常に探してしまう・探さずにはいられないというドンキホーテ状態になっているのではないかという気がするのです.だから,「逆説を弄びすぎている」というのは,自己分析として妥当なのではないかという気もします.

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