ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』

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イロニーの精神 (ちくま学芸文庫)
ウラディミール・ジャンケレヴィッチ
筑摩書房
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 ジャンケレヴィッチの『イロニーの精神』をなんの目論みもなしに読む*1。この著作については、ここ十年ぐらいの社会学関連の本のなかで、かなり頻繁に引かれていることもあり、読む前からなんとなく内容を知っていたのであるが、それでも面白く読めた。ただ、文章はかなり抽象的で、具体的な事例としてあげられるのは文芸作品か音楽作品のみ、という感じなので、その方面の教養がなくてはちょっと難しいかもしれない(訳注などもとくにない)。ジャンケレヴィッチには、ドビュッシー論やフォーレ論などもあるそうだから、そちらも読んでみたく思った。





 さて、この本で説明される「イロニーの精神」であるが、この内容については冒頭の一ページちょっとのなかに集約されているように思う。この部分を、ざっくりと要約してみると以下のようになる。





 イロニストは危険を恐れない(危険をすでに知っている)。だが、あえて彼らは危険と戯れようとする。その戯れのなかでイロニストは、危険を恐れるふりをしながら、危険へと赴く。このとき、イロニストに襲いかかる危険は、襲いかかる度に死滅させられる(なぜならそれはイロニストにとってもはや危険ではないからだ)。ゆえに、イロニストは危険を恐れるものよりも自由だし、決然と危険に立ち向かおうとする人物よりも自由である。「危険を恐れるふりをする」というまなざしが、イロニストを危険に飲み込まれることから救うのである。





 第一章、第二章では以上に要約したイロニーがどのような効果をもたらしたのか、また、歴史上のイロニストたち(ソクラテスやバルタザール・グラシアン、あるいはフランス近代の作曲家・作家)の作品のなかにどのようにイロニーが反映されていたのか、を検証するような内容。続く第三章、これは「イロニーの罠」と題されているのだが、「あえて○○する」態度が次第にイロニカルな性格を無くしてしまいベタに転じてしまう、というような事例が紹介されている。





 この「あえて○○する」というキーワードであるが、これは宮台真司のここ数年のキーワードである。この意味は「この不透明な時代を生きぬくためには、あえて○○する、というような態度で飄々とサバイヴせよ!」という感じだったはずである。それで、宮台は「あえて亜細亜主義」と息巻いている。しかし、この裏を取ってみると、イロニカルなまなざしがもたれているため、別に亜細亜主義である必要はない。だが、新自由主義だと救われないので、却下という風に○○は○○だからダメという風に判断はおこなわなければいけない。すると、あえて亜細亜主義である、と。この判断を下すために「日本国民の民度を上げなくてはいけない」らしい。かなり暴力的な要約で、しかも全面的に間違っているかもしれないが、なんかそうみたいです。





 ただ、この『イロニーの精神』を読みながら考えたのは「あえて○○することも、結構しんどそうだよなぁ」ということである。そこでは自らを客体化する不断のまなざしが必要である(いつのまにかベタになってしまわないように)。さらに、そのような態度は「一体感」というか「高い充足感」みたいなものも不可能としてしまう。これによってファシズムは避けられるだろう。しかし、常に自分で自分をモニタリングしながらあえて何かにコミットするのでは、半勃起状態のような煮え切らないモノを抱え込まなくてはいけないのではなかろうか。




*1:先日代々木公園で開催されたタイフェスでビール三本飲んだら、いつのまにかリブロで勢い良く本を買ってしまっていたのだ





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