スキップしてメイン コンテンツに移動

ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』




イロニーの精神 (ちくま学芸文庫)
ウラディミール・ジャンケレヴィッチ
筑摩書房
売り上げランキング: 364238


 ジャンケレヴィッチの『イロニーの精神』をなんの目論みもなしに読む*1。この著作については、ここ十年ぐらいの社会学関連の本のなかで、かなり頻繁に引かれていることもあり、読む前からなんとなく内容を知っていたのであるが、それでも面白く読めた。ただ、文章はかなり抽象的で、具体的な事例としてあげられるのは文芸作品か音楽作品のみ、という感じなので、その方面の教養がなくてはちょっと難しいかもしれない(訳注などもとくにない)。ジャンケレヴィッチには、ドビュッシー論やフォーレ論などもあるそうだから、そちらも読んでみたく思った。





 さて、この本で説明される「イロニーの精神」であるが、この内容については冒頭の一ページちょっとのなかに集約されているように思う。この部分を、ざっくりと要約してみると以下のようになる。





 イロニストは危険を恐れない(危険をすでに知っている)。だが、あえて彼らは危険と戯れようとする。その戯れのなかでイロニストは、危険を恐れるふりをしながら、危険へと赴く。このとき、イロニストに襲いかかる危険は、襲いかかる度に死滅させられる(なぜならそれはイロニストにとってもはや危険ではないからだ)。ゆえに、イロニストは危険を恐れるものよりも自由だし、決然と危険に立ち向かおうとする人物よりも自由である。「危険を恐れるふりをする」というまなざしが、イロニストを危険に飲み込まれることから救うのである。





 第一章、第二章では以上に要約したイロニーがどのような効果をもたらしたのか、また、歴史上のイロニストたち(ソクラテスやバルタザール・グラシアン、あるいはフランス近代の作曲家・作家)の作品のなかにどのようにイロニーが反映されていたのか、を検証するような内容。続く第三章、これは「イロニーの罠」と題されているのだが、「あえて○○する」態度が次第にイロニカルな性格を無くしてしまいベタに転じてしまう、というような事例が紹介されている。





 この「あえて○○する」というキーワードであるが、これは宮台真司のここ数年のキーワードである。この意味は「この不透明な時代を生きぬくためには、あえて○○する、というような態度で飄々とサバイヴせよ!」という感じだったはずである。それで、宮台は「あえて亜細亜主義」と息巻いている。しかし、この裏を取ってみると、イロニカルなまなざしがもたれているため、別に亜細亜主義である必要はない。だが、新自由主義だと救われないので、却下という風に○○は○○だからダメという風に判断はおこなわなければいけない。すると、あえて亜細亜主義である、と。この判断を下すために「日本国民の民度を上げなくてはいけない」らしい。かなり暴力的な要約で、しかも全面的に間違っているかもしれないが、なんかそうみたいです。





 ただ、この『イロニーの精神』を読みながら考えたのは「あえて○○することも、結構しんどそうだよなぁ」ということである。そこでは自らを客体化する不断のまなざしが必要である(いつのまにかベタになってしまわないように)。さらに、そのような態度は「一体感」というか「高い充足感」みたいなものも不可能としてしまう。これによってファシズムは避けられるだろう。しかし、常に自分で自分をモニタリングしながらあえて何かにコミットするのでは、半勃起状態のような煮え切らないモノを抱え込まなくてはいけないのではなかろうか。




*1:先日代々木公園で開催されたタイフェスでビール三本飲んだら、いつのまにかリブロで勢い良く本を買ってしまっていたのだ





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か