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ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』




暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
ヴァルター ベンヤミン 野村 修
岩波書店
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 以前にちくま学芸文庫版の『ベンヤミン・コレクション』で既読の論考・エッセイなどを含んでいたが、表題となっている論文『暴力批判論』読みたさに読むが、翻訳が悪いのか(新しい訳のはずなのだが)、これはちょっと楽しく読めなかった。ちくま版の浅井健二郎と比べると、今回の野村修訳は文章の流れが良くない気がする。とても美しいとは言えない悪文も並び、この文庫のなかに『翻訳者の課題』(ちくま版では『翻訳者の使命』)というエッセイが含まれているのが皮肉に感じられるほどだ。単に私の頭が悪いせいかもしれないが、ここに収められている作品のほとんどが、ちくま版で読めることを考えれば、岩波版は選択すべきではないのかもしれない。このあたりは好みの問題もあるだろうけれど「こういう文章を書くと、わかりにくくなる」という勉強をしている気分になってしまった。




 そういうわけで今ひとつつかみどころのない、やや不毛な読後感を抱く結果となってしまったが、ここに収録されたいくつかの作品とアドルノの作品との対応について考えられたことは、収穫だったかもしれない。ベンヤミンとアドルノの関連を強く感じた作品は、『一方通行路』と『一九〇〇年前後のベルリンの幼年時代』(どちらも抄訳である)。前者はアドルノの『ミニマモラリア』と、そして後者は未完のベートーヴェン論*1の前半部分を想起させる内容であると思う。





 前者ではアファリズム的な形式が共有されている。しかし、より重要なのは後者の共通点であろう。ベンヤミンが自伝的に語る子ども時代の感覚と、アドルノのそれとは強く重なり合っていて、両者は理性によることのないミメーシス的な認識を指示しているように思えるのだ。アドルノが《ワルトシュタイン》について「子供の頃の私の方が、真実にちかいところにいたのではあるまいか」と語ったのと、ベンヤミンが靴下から学んだものとの間において。




 もちろん、表題作『暴力批判論』も(もっと訳がよければ、あるいは自分の頭がよければ)面白かったが、『雑誌《新しい天使》の予告』という発表されずに終わった雑誌の予告文も面白かった。これらの作品には思わず線を引いておきたくなるような金言・箴言が満載*2


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*1:アドルノの死後に『ベートーヴェン――音楽の哲学』として編集されて発表された


*2:ベンヤミンの著作を読んでいると「これは重要かも」と思って、線をひいておきたくなるような文章が多すぎる気がしないでもないが





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