大澤真幸『資本主義のパラドックス』

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資本主義のパラドックス―楕円幻想 (ちくま学芸文庫)
大澤 真幸
筑摩書房
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 一九八〇年代後半から九〇年ぐらいまでに発表された大澤真幸の近代論集であり、資本制論集。「ちくまの本で大澤真幸のプロフィール欄に使われている写真は、どういうシーンで写されたものなんだろうなぁ……(ややハニかみながら、首をかしげている)」と思いながら読む。全体は三部に分かれており、それぞれ「幻想としての資本主義」、「近代という運動」、「週末としての資本主義」というタイトルがついている。なかでも第一部はとても面白かった。




 問いは我々が日常的に用いている貨幣とはどのような性質をもつものか、そして、なぜ機能可能なのか、というとても身近なところから始まる。重要なのは、信用である、と大澤は言う。しかし、その信用は無根拠によって支えられている。たとえば、お金になりそうなアイデアを持っているが、それを現実に実行するための資金がない、という人がいるとする。そのような場合、おそらく彼は資金を借りるために、銀行に融資をしてもらいにいくだろう。いろいろあって*1彼はお金を借りられることになった。次の日に彼の銀行口座には、お金が入っているだろう。





 このとき、銀行は彼に信用を与えたことになるだろう。正確に言えば、彼が持っている「お金になりそうなアイデア」に対して信用を与える。これによって彼はお金を得ることができた。しかし、これは考えてみれば不思議な話でもある。それは、この取引によってお金になりそうなアイデアというまったくどこにも現物が存在しないものからお金が生まれたことだ。大澤が指摘する信用の無根拠さとは、簡単にいうとその現物(保証)がどこにも存在しないところから、流通される貨幣が生まれる、という不思議さになるだろう。





 無根拠なまま信用が与えられるメカニズムには、未来への信用が必要不可欠である。銀行が信用を与えるのは「きっと、この人は将来利子をつけて貸したお金を返済してくれるだろう」という信用をしているからだ。だが、この信用もまた無根拠なものとならざるを得ない。では、どうしてそのような未来への信用が可能となるのだろうか……?





 ここから大澤の探求が大きく跳躍していく。十七、十八世紀にヨーロッパに現れた錬金術師の分析へ。この跳躍から二、三のポイントを経由しつつ、はじまりの地点である「無根拠な信用が可能となるメカニズム」へと戻ると、そこでは信用を与える主体にとっての、他者である信用を与えられる主体の現れ方がキーになっていることが見えてくる。これは非常に議論の運び方として鮮やかで、こういうものを読むのは社会学者の著作を読む楽しさの醍醐味のひとつであろう。大変勉強になった。





 しかし、続く第二、第三部はどうも切れ味が悪く感じられてしまう。大澤は第二部ではモーツァルトから近代の主体意識の萌芽を分析し、第三部ではディズニーランドという空間を成熟した近代の主体意識のマッピングを試みている。議論の枠組みとしては、第一部と同様であるのに、それほど効果的な議論ができないないように思えてしまう。なぜなのだろうか?





 少し思い当たるのは、分析の対象と分析の結果とのあいだで上手く距離がとれていないのではないか、ということだ。例えば、モーツァルトという分析の対象があって、近代の主体意識という結果がある。大澤はふたつの構造の類似性・同質性によって、対象と結果を結び付けようとする(このやり方は、第一部でも同様である)。だが、ここでは類似性・同質性に頼りすぎているのではないだろうか、と感じられたのだ。しかし、これもまた勉強になる。以前「似ていることを指摘するだけの議論には意味がない」という話をされたことがあるが、これを読みながら、少しその言葉の意味が理解できた気もする。





 最後にどうでもいいところでツボだった点を以下に引用(正確には孫引きだが)。



十七、八世紀の宮廷社会の風俗のなかでも、ひときわ奇妙なのは、寝室で華麗な便器がたんに便器として使われるだけではなく、寝室の主の公的な座になっていたことである。極端な言い方をすれば、「便器の玉座」があったのである。


 下品伯爵*2もびっくりだね!




*1:査定とかそういうの


*2下品伯爵の一日 - はてなハイク





2 件のコメント :

  1. >「無根拠な信用が可能となるメカニズム」

    mk さんが,最近新邦訳の出たルソーの『人間不平等起源論』『社会契約論』などを,どのように読まれるのかというのも興味がわきます.

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  2. では、読ませていただきます。

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