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1000年後の南米のエリザベス・テイラー @LIQUIDROOM




出演


DJ:


三浦康嗣(口ロロ)


菊地成孔


LIVE:


DE DE MOUSE


菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール



 友人に誘われて行ってまいりました。ペペ・トルメント・アスカラールについては既発のアルバムはすべて所持、それなりに聴いてはいましたがライヴは本日が初めてでした。結構期待していたのですが……ここからは「自分が好きなモノをけなす人に対して、攻撃的になってしまう」ような愛すべきジャニーズ・ファン的メンタリティをお持ちの方にとっては不愉快なことを書くと思いますので、ここで読むのをおやめください……もし読んだとしても「ああ、冴えない無理解な会社員がなんか吠えてるや、かわいそうに」とお思いになり、寛大なお気持ちでお流し下さいませ……全然良くなかったです。いや、マジで。





 DCPRGのライヴで見られたような熱狂的な盛り上がりが展開されているのだろう……とも思っていたのですが、踊っている人もあんまりいなかったです。後半に入ってマサカーのカヴァーが演奏されたときぐらいからようやく盛り上がってきたように思われます(たしかに後半の演奏は良かった)。ポリリズムでタンゴ、踊れる要素満載じゃないですか! でも踊れないし、楽しくない。うーん。なんだろう。演奏の質なのかな……「こんなものか……これじゃあ知恵のついた葉加瀬太郎みたいなものじゃないか」と思いました。情熱大陸!





 あと、DE DE MOUSE!! かなり前にライヴを観たことがあって、いつの間にか一人ユニットじゃなくなっていたので驚いたんですが、それより驚いたのが、DE DE MOUSEが小室哲哉の変名バンドだったってことです。ホントねー、TMNかと思いました。お前ら、就職しろ! 最小不幸社会のために納税しろ! と言いたくなった。俺の中でDE DE MOUSEは、サブカル好きのいけすかねー野郎が、部屋に女の子を連れ込んで「ねぇ、カッコ良い音楽があるんだけど」と言って流し始める音楽……的な印象が拭えません。





 印象があまり良くなかったライヴばかりでしたが、アンコールの前のメンバー紹介で菊地成孔に菅直人の生霊が憑依。バンド名が「菅直人と最小不幸社会」に変更されることが発表されると、菊地(中身は菅新総理)がものすごい勢いでカイワレダイコンを食べ始め、ごまドレッシングを観客にかける……というパフォーマンスが一番面白かったです!





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