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アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』




存在の大いなる連鎖 (晶文全書)
アーサー・ラヴジョイ
晶文社
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 「観念の歴史(The History Of Ideas)」という学問が、どこまでメジャーなのか知りませんけれど、『存在の大いなる連鎖』の著者、ラヴジョイ大先生(LoveかつJoy。すごい苗字!)はこの学問の創始者のひとりとなっているようです。で、これがどういう学問かっつーと「観念」、たとえば「存在」とか「主体」とかいろんな観念があるけど、そういう観念自体が歴史上どのように考えられてきたのか、を学際的に調べる、というものです。ラヴジョイの『存在の大いなる連鎖』という本も、「存在の連鎖」(これがなにを指し示しているのかは後述)という観念の歴史をプラトンという西洋思想の源流から、18世紀の生物学とかにまで渡って分析したすごい本。超面白かったです。LoveかつJoyは伊達じゃないんだな、と思いました。35年前の翻訳は、私にとって催眠効果たっぷりな謎日本語で苦しかったですけれど、読んで良かったです。ちくま学芸文庫で出ませんかね。新訳、上下巻分冊で一冊1500円なら買いますよ! 講義がもとになった本なのだから、もうちょっとやわらかい日本語で訳しても良いと思うし、ラヴジョイ先生はギャグっぽいことや皮肉をいっぱい含ませているのに、そのユーモアが全然わからない訳文になっているのが残念な感じがします。





 ラヴジョイが主に取り上げているのは「存在の連鎖」ですが、本の根底には「人間は世界(宇宙)をどのようにとらえてきたか」という問いがある。で、その原初にはプラトンがいる。プラトンは「世界を作ってるのは善のイデアだ」という風に世界を想定しました。世界はこの善なるもので満たされている。この善なるものが意図するとおりに世界は完全にできている。善じゃないものが世界にあるけれども、善じゃないものがないと世界は完全じゃないから善じゃないものも世界にはある。これがプラトンの世界観。この原理をラヴジョイは「充満の原理」と名づけています。これにアリストテレスが「連続の原理」を加えます。世界にはいろんな存在がいる。こいつらはなんかすごい神様みたいな存在のもとに秩序立てられているに違いない。小さいものから大きなものへ、未発達なものから発達したものへ、世界はそういうふうに組織立てられているに違いない。この存在の組織だった連なりが「存在の連鎖」という観念です。





 その後の西洋思想史における世界の捉え方は、この充満の原理と連続の原理をめぐるものである、とラヴジョイは言います。それは彼も引用しているホワイトヘッドの「西洋哲学史なんかみんなプラトンの注釈の歴史なんですよ(藁」と重なる歴史観とも言えましょう。ずーっと充満の原理と連続の原理をめぐっているわけだから、似たようなことを言う人も出てくる。アベラールは、スピノザが活躍する5世紀前に彼と同じ宇宙観を持っていた。これには「さすがチンチン切られた人だけあるなぁ」と思いましたし、トマス・アクィナスやライプニッツは「神様的なものが世界に充満してたら、自由意志や時間とか考えられないんじゃないか!?」とか悩んでいた。この本を読んでると、西洋哲学史もけっこう不毛なことで悩んでるんだなぁ……とか思いますが、そこが面白かったです。





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