スキップしてメイン コンテンツに移動

イエイツの『記憶術』を読む #2




記憶術
記憶術
posted with amazlet at 10.06.11
フランセス・A. イエイツ
水声社
売り上げランキング: 260770



第二章 ギリシアにおける記憶術――記憶と霊魂


 さて、第二章でイエイツは再度ギリシアの記憶術がどのようなものであったか、というのを探っています。まずはギリシア式記憶術の始祖、シモニデスについて。さまざまな人に偉大な人物として語られたにも関わらず、彼が書き残した著作はもちろんのこと、ギリシア時代の書物でシモニデスの逸話を伝えるものは何も残っていないのだそうです。記憶術についてシモニデスの名前を出して言及しているのは第一章にでてきた三大ラテン語文献が最古のものなのだとか。しかし、実在の人物であったことは確かなようです。第二章の冒頭で彼のプロフィールが紹介されていますが、この文章はなかなか魅力的。



ケオスの人シモニデス(紀元前556-468頃)はソクラテスより前の時代に属している。若い頃にはまだピュタゴラスも存命中であったかもしれない。(残存する詩作品はほとんどないものの)ギリシア最高の叙情詩人の一人として、ラテン語ではシモニデス・メリクス、すなわち「蜜のごとく甘い(歌い手)」と呼ばれた彼は、とくに華麗なイメジャリーを駆使する点で優れていた。(P.51)



 シモニデスは記憶術のパイオニアであり、最高の叙情詩人……才能豊かな人だったようですね。後にプルタルコスは「シモニデスは絵画を無言の詩と呼び、詩を口をきく絵画と呼んだ」(P.52)と記しておりますが、この点にイエイツは注目しています。シモニデスは、場にイメージを埋込、それを自由に引き出す方法を記憶術としましたが、絵画もまたカンバスのなかにある一定の場所にイメージを埋込むものであり、それは記憶のようなものを伝える方法とも考えられます(いわば、パノフスキーにはじまるイコノロジーは、カンバスに隠された記憶を読み取る学問と言えるかもしれません)。よって、これは「記憶術発明と分母を同じくしている」(同)のです。





 次にイエイツはギリシア時代にそもそも記憶とはどのようなものであったのかについて整理をおこなっています。まずは、大哲学者アリストテレスは、どう考えたのか。アリストテレスはまず『霊魂について』という著作において「想像上の絵を書いた思考は不可能である(P.57)」という風に言っています。このとき、想像上の絵(イメージ)は「記憶法において記憶のよすがとなるべき慎重に形成されたイメージ(同)」に類比されているのですね。またアリストテレスは『霊魂について』の補遺にあたる『記憶と想起について』というそのものズバリなタイトルの著作において、そのイメージ形成方法を「印形つき指輪で封蝋を押すような一つの動作とみなしている(P.58)」のだそうです。アリストテレスによれば、記憶力の良し悪しは、気質によって左右されます。アリストテレスの説明は現在の記憶のイメージに近いのではないでしょうか? なにかを記憶するという行動の暗喩が、内的筆記――自分のなかに何かを書き込む――として表現されること。これは三大ラテン語文献にも受け継がれ、アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスといった中世の人たちにも多大な影響を与えています。





 一方プラトンもまたアリストテレスと同じく封蝋の隠喩を用いて、記憶を説明しています。しかし、彼はアリストテレスとちがって「感覚による印象からは引き出せない知識があること、われわれの記憶するものの中には〈イデア〉すなわち魂が地上に降りる前に知っていた実在の原型や鋳型が潜在的に存在すること、を信じてい(P.61)」ました。プラトンにとって、記憶とは人間の霊魂のなかにすでに刻印されているものであり、学習することとはすでに刻印されたものを思い出すこと、だったのです。イエイツは、プラトンのこのような言説を以下のように分析します。



あらゆる知識、あらゆる学習は実在を思い出す試みであり、感覚によって知覚された多種多様のものを、実在との対応を通して似たもの同士一つに統合するにある。(中略)プラトン的意味では、記憶とは全体を支える土台なのである。(中略)プラトン的記憶は、記憶技術を姑息に操ることではなく、実在と関連づけて一切を組織づけようとする試みなのである。(P.62)



 これは少し難しいですね。私なりに噛み砕けば、学習内容と実在を結びつけ、組織づけることによって、世界の真理を自分の中に再現するというプロジェクトがプラトン的記憶などだ、という風になるかもしれません。このプロジェクトは、ルネサンスの新プラトン主義者へと継承されます。カミッロによる〈記憶の劇場〉はそのもっともわかりやすい例だ、とイエイツは指摘しています。その劇場に配置された各種のイメージが、実在の祖型に基づいている(だから、それを利用することが実在を参照するための手段となりうる)と彼は信じていたのだ、と。また、このアウグスティヌスの名もこの影響下にあるものとして挙げられています。





(続く)





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」