スキップしてメイン コンテンツに移動

リゲティの肖像 @水戸芸術館コンサートホールATM




プレ演奏(1)


パイプオルガン・コンサート


(ご入場無料/エントランスホール)


・フレスコバルディ:『音楽の花束』より


<クレドの後の半音階的リチェルカーレ>(1635)


・リゲティ:リチェルカーレ


~フレスコバルディへのオマージュ(1951)


・リゲティ:ヴォルーミナ(1961/62)


演奏:近藤岳(オルガン)


プレ演奏(2)


(コンサートホールATM)


100台のメトロノームのための<ポエム・サンフォニック>(1962)


演奏会


弦楽四重奏曲 第1番 <夜の変容> (1953-54)


ライヒとライリーのいる自画像(背景にショパンもいる)(1976)


ピアノのための練習曲集


・第1巻 VI. ワルシャワの秋(1985)/第1巻 V. 虹(1985)


・第2巻 XIII. 悪魔の階段(1993)


無伴奏ヴィオラ・ソナタ(1991-94)


弦楽四重奏曲 第2番(1968)


ルクス・エテルナ(永遠の光)(1966)


出演


アルディッティ弦楽四重奏団


小坂 圭太(ピアノ)


中川 賢一(ピアノ)


松井 慶太(合唱指揮)


東京混声合唱団(合唱)


白石 美雪(おはなし)



 水戸芸術館企画『リゲティの肖像』を聴きに行く。はるばる水戸まで足を運んだ甲斐があったなぁ、と満足度が高い充実した演奏会だったと思います。初めていった会場でしたけれど、ホールは大きさ、響きともに室内楽に適した場所だと感じました。目玉は何といってもアルディッティ弦楽四重奏団による弦楽四重奏曲の演奏。最高峰の現代音楽グループの実力を初めて生で聴き、鳥肌が立つ瞬間が何度もありました。鋼鉄のアンサンブルといい、音色の素晴らしさといいホントにカッコ良かった。機会に恵まれたら彼らの演奏はまた聴きにいきたいです、絶対。




 生《ルクス・エテルナ》もちょっと特殊な体験でした。この曲は松平敬の『MONO=POLI』*1に収録されている版で聴いていて、東京混声合唱団の演奏には若干物足りないものを感じたのですが(男声の音量が圧倒的に足りなかった)、音が複雑に重なった部分になると、頭のなかで音が広がりすぎて「この音は、頭のなかでしか鳴ってないんじゃないか?」という一種の錯聴がありました(自分の聴いている音がなんなのかわからなくなる)。そういう風に身体的な感覚に訴えてくる作品は印象が強いですね。





 小坂・中川によるピアノ演奏も良かったです。演奏前や合間に白石美雪が出てきて、うんざりするような長話をしていましたが(パンフレットに書いたこと以上のことを喋ってないんだもん!)、休憩後に小坂・中川で「リゲティの魅力」について語った内容は興味深い話でした。曰く「リゲティの作品は、最初から自分の個性を出そうとして取り組めるほど甘くない(それぐらい難しい)。何度さらってもさらいつくせた気がしないし、それだけに飽きがこない。演奏家の個性はこうして何度も練習を重ねていくうちに、自然に出来上がっていく」(大意)。





 この話が示唆するところは、通例クラシック演奏というものは「解釈を伴った演奏行為(演奏家は頭を使って楽譜を読んで、その読みを聴かせる)」と考えられますけれども、実際にはもっと肉体的な積み重ねによって「解釈」が出来上がっている(頭ではなく、体が解釈を作る)、ということです。こういったところから(聴衆にはわからない)演奏家の世界が見えるのは、また違った音楽の聴き方をするきっかけとなるように思います。





 それにしてもリゲティが亡くなってからもう4年ですか……。個人的な話ですが、リゲティが亡くなったニュースを聴いたときのことは異様にはっきり覚えています。ちょうどドイツでワールドカップが行われている時期で、日本代表がオーストラリア代表に負けた日だったはず。奇しくも4年後、日本代表が敗戦した次の日にこうしてリゲティを回顧する企画を聴こうとは……。60 年代にやってきた彼の最初のピーク期を聴くだけでも、やはり重要な作曲家であったのだなぁ……と感慨深いものがありました。



Gyorgy Ligeti Works (9 CDs) [Box-Set]
Various Artists
Sony Bmg Europe (2010-02-22)
売り上げランキング: 74637







コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か