本日は第一章の後半に入っていきましょう。ここでは「万物は流転する」で有名なヘラクレイトスとパルメニデスについての紹介がおこなわれます。まず、ヘラクレイトスですが、この前に語られているクセノファネスとの対比から触れられています。クセノファネスが究極的実在を「全一」というすべてが渾然一体となった「始原的融即態」として捉えていたことは前回のマトメにも記載したとおりです。しかし、クセノファネスはこうした全一の流動性には注目していなかった、と井筒は言います。そこには無限なる分化分裂の可能性があるはずなのに、と。ヘラクレイトスは、その流動性についてギリシア人として初めて考え始めた人物だったようです。万物は流転する。彼は存在界で不断に生じている生成の実相を、河の流れに喩えました。ただ、そうした考えは当時の「ギリシア全体の精神的空気」であった、と井筒は指摘しています。そこにはヘラクレイトスの独創性はない。
では、どこに彼の独創性があったのか。それは彼が「『内面への途』を知悉する神秘道の達人」(P.24)だったところに由来しています。彼は人間の霊魂に限界を設けなかった。精神世界の深さはどこまでも続いていく。しかし、彼ほどの達人になれば、終わりがない精神世界の終わりを目撃できる、と井筒は言います。そして、ヘラクレイトスは深く深く入り込んでいった精神の極限において、彼は超越的に「流動そのものの極致」、絶対的存在を見出したんだとか。なんだか「スピードの向こう側」みたいな話ですが、ここにこそヘラクレイトスの独創性があった、と井筒は主張しています。外に向かうのではなく、内に向かうことによって究極的実在を見出したのだ、と。現象界の流動を捉えつつ、霊魂の深さを極めようとするうちに、宇宙的動性の動性(動きの動き)そのものへと達したとき、動は静へと転じて神的矛盾が生ずる。それがヘラクレイトスの見出した神であり、ロゴスだったそうです。
こうしたヘラクレイトスの思想を「両頭の怪物」と揶揄したのがパルメニデスだったそうです。彼はヘラクレイトスとは反対に生成変化などすべて「夢幻虚妄」として捉え、世界で確かに実在しているものは絶対超越的本体のみである、と説いたのでした。これはクセノファネスの考えを継承したもののように考えられますが、パルメニデスは全一ではなく「一」にのみ注目していた、と井筒は言います。「存在の窮極点、あらゆる存在者の存在性の太源をなす深奥玄微のただ一転に全照明の力を集中し、これを煌々たる光の中に浮び上らせて置いて、彼はその余の部分を悉く昂然として截断し棄却する」(P.32)。さらに彼は「思惟と存在の一致」を説きます。高次の存在領域においては、思惟と存在と、思惟の対象が渾然一体となり、思惟によって思惟するものの存在が確立される。井筒はパルメニデスの思想をこのように読み解き、そしてデカルトに先駆けて「思惟即存在」(Cogito ergo sum)を唱えた人物であることを強調しています。
さて、ここまでに三人の思想家が紹介されましたが、彼らはいずれも存在性の絶対根源として神を捉えているところでは共通しています。それは論理的に要請されたから設定されたものではなく、また、自然の力を擬人化した想像の産物でもなく、存在を成り立たせる「生命の神」として考えられました。こうした根源として神が、ギリシア哲学の存在的頂点になっていたことが確認され、第一章は終わります。第二章ではいよいよプラトンが登場です!
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