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マーク・ウェブ監督作品『(500)日のサマー』




(500)日のサマー [Blu-ray]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2010-12-23)
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 昨年の話題作を鑑賞。サブカル男子が描かれた映画である、というのはいくつかの映画ブログの記事で読んではいたのだが、主人公のキャラクター作りがここまで徹底していると、もはや風刺なのではないか、という気持ちにもなってきた。面白かったかどうか、と問われれば面白かったけれど、サマー役のズーイー・デシャネルが会社にいる生理的に苦手な女性と似ている事実に気がつくと、その女性に対する不快感がズーイー・デシャネルに上乗せされてしまい、ただでさえ「ええ……とんでもなく身勝手な女じゃないか!?」と思わされたのに余計にムカムカとしたりもする(あまりにも個人的な理由……)。世界を支配しているのは運命か、偶然か。エンディングで語られる物語のテーマは「そんな話だったのかよ!!」と大きく突っ込みたくなり、大笑い。これを思想史上の主知主義と主意主義の対立の話へと接続することもできよう。アヴィセンナ対スコトゥス、みたいなさ……しないけれども。でも「すべては偶然(incident)である」というセリフからは、出来事が偶発的に発生しそれらが連なって世界を形作っているイメージが浮かんで、良いセリフだな、と思った。





 あと、サマーの振る舞いから思い出したのは社会学者、ゲオルク・ジンメルの「コケットリ」についての記述。



……女は「与えることを仄めかすかと思えば、拒むことを仄めかすことで刺戟し、一方、男性を惹きつけはするものの、決心させるところまではいかず、他方、避けはするものの、すべての望みを奪いはしない」。この「イエスとノーとの間」を揺れる遊戯=ゲームは、「堅い内容や動かぬリアリティの重みをすべて捨てている」(もし拒否したり、彼のものになったりしたら、その瞬間に彼女はある内容・リアリティに釘付けされて、その動きは止まり、魅力はなくなるだろう)。そして女性のこのコケットリのゲームに対し、男性が「欲望や欲望への警戒を離れて」そのゲーム自身に魅力を感じるようになったとき、これは「社交」となる。


 以上は、奥村隆『ジンメルのアンヴィバレンツ』*1からの引用。ジンメルはこうした揺れ動くコミュニケーションのゲームのなかに、社会がつながりゆく可能性を見出したわけだけれど500日のうち、100日ぐらいのサマーにこの記述は当てはまるような気がした。サマーは特定の男性の所有物のように扱われることによって、ある一定の場所に釘付けされることを恐れていたように思われる。恋人である、というレッテルが張られた瞬間に、生き生きとした彼女の実存が廃墟と化すことを恐れるように。しかしながら彼女はあるとき、「運命」の存在を直観することによって、一定の場所に釘付けされても良いと思うようになる。このあまりに正反対の態度への回心がイラッとくる理由のひとつなのだが、「運命」に出会ったならばそれぐらいの方向転換はするかもね。






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