『翻訳夜話』は作家、村上春樹とアメリカ文学者、柴田元幸という翻訳でつながったふたりが、翻訳について語ったもの。出版されたのは10年ほど前のことで、最初に収録されたフォーラムにいたっては1996年のものだから15年も前になる。このあいだ、村上春樹も柴田元幸も、かたや日本で最も人気のある作家のひとりであり続け、かたや日本で最も人気の翻訳者のひとりであり続けたのだからなんだかすごい話であるな、と思う。当初で触れられるのは、翻訳の話だけではなく、村上春樹の文章の作り方、一種の創作論も含まれており、この面でもとても興味深い書物だろう。
翻訳といえば思い出すのはベンヤミンの「翻訳者の使命」という文章だ。これはつい先日も別なところで引用しているし、過去にもこのブログで引用したのだが、また改めて引用しておこう。
翻訳において個々の語に忠実であれば、それぞれの語が原作のなかにもっている意味を完全に再現することは、ほとんど必ずといっていいほどできない。なぜなら、語の意味は、原作に対するその詩的な意義からすれば、志向されるものにおいて汲みつくされるものではなく、ある特定の語において志向されるものが志向する仕方にどのように結びついているかによってこそ、その詩的意義を獲得するからである。
ベンヤミンは、言語の意味(志向されるもの)が言語の音(志向された音)と結びついていると考えた。指摘意義や意味とはそういった意味と音との関係性のなかで生まれてくるものだ。だから、個々の語に忠実することで意味を再現するという試みは、常に失敗を前提としたものでなければならない。だって、翻訳をした時点で音が変わっているんだもん、と。
そう考えると翻訳という行為も言語化不可能なものに取り組む、といういささかロマンティックな態度にも思えてくる。本書で村上・柴田が悩むところは、単に物好き同士の悩みではなく、ロマンティックな煩悶として捉えられてもよいのかもしれない。本書では、村上のカーヴァー訳と柴田のカーヴァー訳、村上のオースター訳と柴田のオースター訳を比較するという試みもおこなわれているのだが、さらにカーヴァーとオースターの原文も収録されている。上に引用したベンヤミンの文章を読み直してから、これらの訳文と原文に触れると言語における音声の力……的なものをより一層強く意識してしまった。
しかし、それは原文の絶対的正当性を意味するものではない。むしろ、翻訳がおこなわれることによって、その物語の核が一層磨かれ、さらに輝くこともあるだろう。そうした物語の本質は、ベンヤミンの言葉を借りれば「純粋言語」の世界で書かれたものだ。翻訳者とは英語と日本語というふたつの言語を超越した純粋言語にアクセスする人たちでもある。いささか神秘主義的な物言いになるが、本書のなかで村上が翻訳者を巫女になぞらえていたのは、少しも言い過ぎではないのだと思う。
ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)posted with amazlet at 11.01.15ヴァルター ベンヤミン
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(ベンヤミンの引用は本書のP.404)
「勉強が楽しい」って感覚にぼくもなってみたいです
返信削除今受験勉強中なのですが、勉強がいやです
世界史・国語・英語
「楽しく」なるにはどうすればいいでしょう?