年が明けてからというもの連日残業が続き、大好きな勉強時間もなかなか取れない日々を過ごしており、いまにも地獄のミサワ的に「つれーわー」などとぼやきたくなるのですが、本日は第二章『プラトンの神秘哲学』に入っていきましょう(ディスプレイの前で読者の皆様が『おつとめごくろうさまです』と念じながらこれを読まれることで、TCP/IP通信とは別な精神的通信網によって私のもとにねぎらいの言葉が届く仕組みになっていたら、少し救われる気持ちになるのになぁ……!)。
「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」というホワイトヘッドの言葉から察せられるとおり、プラトンという思想家の存在が、西洋哲学史の巨大なマイルストーンとなっていることはいうまでもありません。プラトンに重きを置くのは井筒の神秘哲学史においても同様であり、井筒はプラトンを西欧神秘主義の第一回の頂点とみなします。しかし、井筒が描くプラトンはしばしば言われる、イデア論のプラトンではありません。井筒はイデア論を「神秘主義的絶対体験のロゴス面」(神秘を言語化したもの)と位置づけ、また「形而上学説の各段階は深い超越体験のパトス的基体に裏付けられている」と言います(P.39)。このロゴスとパトスの合一を捉えなければ真にプラトンは理解できない、というのが井筒の見立てです。
ともあれ、プラトンのイデア論がどういったものなのか、について井筒はみていきます。ただ、すんなりと「イデア論とはこういうものである」などと叙述されるのではありません。ここで最初に井筒が持ち出してくるのは、唯名論的な認識の世界についてです。
我々は具体的個人として目前に存在するこの人、或いはかの人を見ることはできぬが、この人にもかの人にもあらざる人間それ自体というが如き普遍者を見ることはできぬ。この馬あるいはかの馬に触れることはできるが、馬そのものには触れることができぬ。すなわち人間自体、馬自体等の一般者は、我々が具体的なる個々の人あるいは個々の馬を見て其等全てに通ずる共通要素を抽象し、頭の中で組立てた理性の産物であって、人間理性を離れた超越界に存在するものではないのである。(P.40)
常人の感覚からすれば、プラトンがイデアと呼ぶものも唯名論で存在を否定された一般者・普遍者のように思われるだろう。なぜなら一般者・普遍者を捉えようとすると、個別的世界を認識に慣れた常人の目には、それらがとても抽象的に思われるからだ。これは、個物的なものを概念で捉え、その概念を大きくしていけばよくわかるかもしれません。私は人間だ → 人間は哺乳類である → 哺乳類は生物である……みたいな感じで。概念に含まれる範囲が広くなればなるほど、抽象的になっていく。しかし、井筒はこうした認識を「対象が抽象的なのではなくして、それを見る目が抽象的なのである」(P.41)と言います。そして、こうした一般者・普遍者を鮮明に捉えようとするならば、「対象の普遍性の度合に応じたレンズを用いなければならぬ」と。その「レンズ」を井筒は「存在的見地」というのですが、この立場からすれば、普遍的なものは抽象的なものとしてではなく具体的なものとなっていく、のだそうです。
しかし、あくまでこの存在的見地と一般的な認識力とは相反するものであります。というか、その存在的見地の具体性は、常人にはほとんど想像がつかない(私にもよくわかりません)。その想像のつかなさを井筒はこんな風に表現します。「一葉一石はおろか塵埃の末に至るまで悉(ことごと)く異常なる鮮明度を以て映し出す彼の両眼も、ひとたび遥かなる地平の彼方に向って注がるる時は、全ては濛々たる雲にかすんで徒らに虚空の無を見るのみであろう」(P.42)。うーん、なんともポエジー溢れる感じですが、第一章で何度も見てきた「一者」・「存在」・「神」というものが、常人にはこうした「虚空の無」になってしまうということですね。存在的には有であり、有の究極的根源が、虚空の無となるこの矛盾。これをギリシャの思想家たちは解決しようと頑張ってきたわけです。プラトンもまた同様。彼が「善のイデア」「イデアのイデア」と呼んだものは、有の究極的根源として理解できますし、プラトンの思想もまた神秘道、なのです。そしてプラトンが偉大だったのは、こうした有の究極的根源を認識するための手段を最初にして最大に組織化・体系化したことでした。
プラトンによって組織化された神秘道は、もう一点、先達とは異なる特徴を持っている、と井筒は強調します。それまでの神秘道は、「一者(存在・神)」を認識するための「向上道(アナバシス)」を説いたものでした。しかし、プラトンはそこでは終わらなかったのです。アナバシスの果てに超越を得るのが、彼にとっては途の半分。そこで道人は反転して「向下道(カタバシス)」を辿り、万人のために奉仕することで完結する、というのがプラトン神秘道の全貌なのです。プラトンがカタバシスを重要視したことは有名な『国家』に現れている、と井筒は指摘していますが、この記述を読んでいて私が真っ先に思い出したのは、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』でした。
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この著作においてシュタイナーは超感覚的世界の認識を得る方法をHowTo本的にまとめていますが、超感覚的世界の認識を得た者に対してシュタイナーは、超感覚的世界にとどまるのではなく感覚的世界に立ち戻り、感覚的世界のいまだ目覚めざる人びとを目覚めさせるための手伝いをしなければならない、と課題を出すのです*1。こうしたシュタイナーの神秘主義に、カタバシスとアナバシス的な姿を認めるのは用意でしょう。シュタイナーの神秘主義に触れたとき、私はカルトの原型を見たような気になったのですが、ここでその原型のさらなる原型を見た気分になりました。冒頭のホワイトヘッドの言葉に戻るわけではないのですが……と話がわき道にそれたところで今回はおしまいです。本日は第二章の第一節を見ることができました。次回は第二節に入っていきます。第二節ではまず『国家』に登場する有名な「洞窟の比喩」について触れられます。それでは。
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