スキップしてメイン コンテンツに移動

プラトン 『ティマイオス』(2)




原文


Timaeus
Timaeus
posted with amazlet at 11.03.17
Plato Donald J. Zeyl
Hackett Pub Co Inc
売り上げランキング: 84124



ソクラテス:そして私たちがこう言ったことも覚えているかね――はじまりや、ものさしや、男女といったものが可能な限り高貴な本質を持つために、結婚は、良い男性は良い女性と、悪い男性は悪い女性とで別々に組み合わされて集団を作るようなくじによって秘密裏に決められるべきである。どうだろう? また、この施策はあらゆる敵意を作り出さない。なぜなら、彼らはこのめぐり合わせがすべて偶然によるものだ、と信じているからだ、とも。


ティマイオス:はい、覚えています。


ソクラテス:また、これも覚えているかね? 良い両親に生まれた子どもはそのまま育てられるべきだが、一方で悪い親に生まれた子どもは秘密裏に別な都市へと移してしまうべきだ、と。そして、これらの子どもたちは成長するまで常に見守られ、援助に値すると分かったらもう一度都市に戻してあげ、そうでなかったら両親たちと一緒に場所を変えてしまうべきだろう、と。


ティマイオス:私たちはそう言いました。


ソクラテス:どうだろう、ティマイオス、これで私たちは昨日話しをしたことについて振り返ることができたのではないかな? 主要な点のみではあるけれど、なにか見落とした点はあるだろうか? 置き去りになっているものはないかね?


ティマイオス:ありません。私たちが語ったことはこの通りです。


ソクラテス:それは良かった。では、私は続けて、私たちが思い描いている政治形態について感じていることを君たちに話したいと思う。今の私の気持ちは、なにか崇高な外見をした動物を見つめている男のような気持ちなのだ――しかし、その動物たちは絵に描かれたものだったり、あるいは生きてはいるが止まったままで身動きをしない。そして、その男は、それらを動いた状態で見たいと渇望し、それらの特別に哲学的な特質を見せびらかすような試行錯誤をしているに過ぎないのだ。私は、誰か都市が争って手に入れる栄誉のために他の都市と競い、自分たちの都市について弁論をするのを聴くのが好きだ。また、私たちの都市が戦争をおこなったり、戦争を求めたりすることで目立つようになるのを見るのも好きだ。なぜなら、それはその都市自身の教育と訓練、あるいは言葉と行為という面が良い方向に反映される方法――たとえば、どのように相手に立ち向かうのか、どのように相手と交渉するのか、といった具合に――において、他の都市を相手にすることであるからだ。クリティアスとヘルモクラテスよ、こうした事柄において、私は我々の都市やそこに住む人間にぴったりな詩を歌うことがまったくできないと自分自身感じているのだ。ただ、これは私の場合だから驚くに値しない。けれども、私は今日の詩人たち同様に古来の詩人たちについても同じように考えてしまうのだ。概して私は、詩人に対して軽蔑のようなものをもっていないが、しかし、血統までも真似をしようとする者は、彼らが真似をしようと訓練しているものを模倣することに関してもっとも熟達している、ということは皆が知っていることだ。芸を真似することをちゃんとした仕事とすることは充分に難しい。物語を著述することはなおさらのことだ。そして、私は、ソフィストという類の人間は弁論を操るのがとても上手であると常々考えていたのだよ。しかし、彼らは次から次へと都市を渡り歩き、自分の家には落ち着かないだろう。その理由で、彼らの哲人政治家としての表現が的外れなものになってしまうのではないかと私は心配しているのだ。ソフィストたちがなにがしかの敵と戦っている際に、彼らは自分達の指導者が戦場で成し遂げたことについて偽りを述べる傾向がある。それが実際の戦争であっても、交渉の段階であってもだ。


 さて、そうしたものごとについてはこれぐらいにしておこう。君たちが鍛えられるのと同様に、本質によって哲学と政治は同時に成り立っている。ここにティマイオスがいる。彼は素晴らしい法律によって規律化されたイタリアの都市、ロクリからやってきた。彼の同胞には彼より上に立つ財産や生まれをもつ者はなく、そして彼はその都市の最高の権威と名誉を独占してしまっている。クリティアスにしても、ここアテネにおいては、私たちが話している事柄について単なる素人ではないことは知れ渡っている。ヘルモクラテスも、本性と訓練によってこうした問題を片づけるだけの資格を持っているために多くの人々から嫉妬を抱かれているにちがいない。昨日、君たちが行政について議論するよう私に願ったとき、私はすでにこうしたことに気づいていたのだよ。だから、私は君たちに命令してほしいのだ。君たちがもし、この続きとなる弁論をすることに同意してくれても、君たちよりも良い仕事ができるものは誰もいないのだよ。君たちを除いては、今日、都市の本当の性格を反映する方法で、戦争を追及する都市を表現できるものはいない。君たちだけが、都市が要求しているものすべてを与えることができるのだ。さあ、これで私が頼まれた議題についてはおしまいだ。私は席につき、君たちに私が描いてきた議題について話すように頼もう。君たちは一緒にひとつの組としてこの議題について考えている。そして、君たちはこの機会にお礼がしたいと言ったね。君たちの弁論が、ここにいる私にとって何よりも心のこもったお返しだ。そして私よりもこの贈り物を受けとる準備ができている人間はどこにもいないのだ。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...