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宮崎吾朗監督作品『コクリコ坂から』




スタジオジブリ・プロデュース「コクリコ坂から歌集」
手嶌 葵
ヤマハミュージックコミュニケーションズ (2011-07-06)
売り上げランキング: 95



まず顕著なのは資本の匂いというか。ジブリはGAINAXがエヴァンゲリオン商法で荒稼ぎをしたように宮崎駿という資産で喰っていく方向に舵をとったのかな、と勘ぐってしまうような作品でした。手嶌葵による時代感のない歌唱が冒頭に配置され、劇中の重要なシーンでも採用されていて「ハヤオらしさ」が盛り込まれているところにもそれは感じられますし、演出にしてもナウシカやハウル、魔女宅といった過去の作品からのあからさまな引用が目立ちます。しかもその引用が非常に雑。全体的に重要ではなさそうなシーンの動きの荒さからして素人目にも動画作りの力の入り具合がはっきりとわかってしまう作りなんですけれども、とにかく「ハヤオっぽさ」を画面に出そうとして、ものの見事にコケている、というか、雑すぎて失敗している点が鼻につきすぎます。これでは宮崎吾朗という人が「七光り」と言われても仕方ない。だって、どこをとっても父親を超えているポイントがないんだもの。船の描き方だってハヤオならもっとマニアックに描くはず。そのあたりのこだわりのなさは、実はこだわれなさ(ハヤオにはいくらでも金が出せるけど、ゴロウにはそんなに出せないよ的な大人の事情による)があるのかもしれないけれど、宮崎吾朗という人にクリエイター(笑)としての矜持があるのならハッキリってこの作品を恥ずかしいと思ってほしい。なにより腹立たしく思えたのは、そういうハヤオの劣化コピーみたいな作品なのに『借りぐらしのアリエッティ』より面白く観れてしまえた、というところ。そこにはハヤオによる脚本の力があるのかな……。





そんなことよりとにかくこの作品を観てまず強烈に感じたのは「アニメーション・スタジオとしてのジブリは『ポニョ』でおしまいだったのかな」ということで。絵が動いている! という動画の愉楽に欠ける寂しい映画でしたよ。ハヤオのアニメーションには、お話の立派さが備わっているのはもちろんなんですが、圧倒的な動きの良さがあったじゃないですか。例えば、ロボット兵がビーム出してるシーンとか、ナウシカのユパ様がフワッとジャンプするシーンとか、トトロのネコバスとか、アシタカが放つ矢が首をもいだりとか……枚挙にいとまがないわけですが、そういうのが『コクリコ坂から』にはホントに乏しい。オート三輪が坂を激走するシーンとかが唯一、そういう動きを感じるシーンだったでしょうか。アクションが要求されるストーリーではなかったわけですが、それにても寂しい。非現実的な重力と、現実的な重力とのバランスが非常に悪いアクションだったのかもしれないです。男の子の主人公が未来少年コナンみたいなすごいジャンプを見せるシーンがあったりするんだけど、その辺の匙加減が悪いので、人間が空気みたいな軽さになった変な映像に見えてしまう。そのあたりがとても気持ち悪い。そのバランスが唯一噛み合っていたのは、男の子の主人公が自転車を漕ぎだすシーンのペダルの重さでしょう。このシーンも既知感ありありですが、スクリーンからペダルを踏み込んだときの反作用が伝わるような良い動きだったと思う。





でもそれだけ。いきなり新橋や桜木町の風景がでてきて、ファンタジーっぽい主人公たちの世界と現実との境目がぐちゃぐちゃにする設定は不要なのでは?(しかもその現実の風景が、今とちょっとリンクしてるんだよ!) 朝鮮戦争とか東京オリンピックとか時代背景も舞台の書き割りみたいなもので、まったく必然性感じないし……。ただ、そんなでも『アリエッティ』より面白く観れてしまうんだからねえ……。これってどうなんでしょう? もしかして動物化してるってことですかあ??





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