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I. S. O. @牛嶋神社(すみだ川アートプロジェクト)



一楽儀光、Sachiko M、大友良英によるトリオ、I. S. O.を聴く。このトリオ、来歴を見れば90年代から活動がはじまっていて、大友良英の音楽に興味を持ちはじめてからずっと気になっていた存在だったのだが、聴く機会に巡りあえてのは今回が初めてだった。会場は9世紀に建立されたという浅草の神社の境内。神社といえば一種のパワースポットであって厳かな感じもするのだが、この場所は都市のなかに存在していて(というか、神社の周辺が都市化された、という言い方が正しいのであろう)、高速道路を走る自動車の走行音や電車の音といった環境音が混じる独特なロケーションだった。浅草の観光地の中心地からはやや外れたところで、まわりには住宅や工場などもある。その雑然とした雰囲気も面白い。





3人の演奏家は境内に三角形を描くように位置をとり、40分ほどの演奏をおこなった。大友のギター・ノイズ、Sachiko Mのサイン・ウェイヴ、一楽のパーカッション(シンバル?や金属的ななにかを弓奏)は、不可避の環境音・ノイズ・自然音と対話・調和するように音楽を奏でる。ライヴ後の大友良英対小沼純一によるトークでも名前があがっていたけれども、自ずとレイモンド・マリー・シェーファーのサウンドスケープの概念が思い起こされるのだが、シェーファーが都市のサウンドスケープから耳を離し、イヤー・クリーニングをおこなおう、という(今考えればニューエイジ感たっぷりの)運動を提唱したのとは、音楽と環境に対する取り組み方は異なっている。





コンサートホールやライヴハウスの機能とは美術館と同じで、環境と音楽を隔絶することだ。つまりそこでは、ノイズを排除することで、音楽空間の漂白がおこわれる。その意味で、シェーファーのイヤー・クリーニングの目論見とはコンサートホールやライヴハウスの機能と繋がるのだろう。漂白された耳は、音楽とそれ以外のものを一層明確に聞き分けることができる。しかし、こんなことも言えるだろう。すべての環境音は音楽としても聴取可能である、と。そして、I. S. O.の音(環境へとクサビのように打たれるノイズや楽音)は、環境を音楽のカッコで囲んでくくり、それが「音楽である」という風に環境の聴かせ方・あり方を変えてしまうのだ。また、演奏中にその空間をリスナーが歩き回り、自由に聴き方を変えられたことも重要に思われた。それはインスタレーション的な体験を与えるもので、大友が近年取り組んでいる「展示する音楽」とも強く結びつくものなのだろう。





前述のとおり、ライヴ終演後には大友良英と小沼純一とのトーク・セッションがあった。小沼純一という人は、自分が現代音楽に興味を持ちはじめるきっかけを作った人のひとりでもあり、大変リスペクトしているのだが(私の音楽を語る言葉なんかほとんど小沼純一からの剽窃だ)、彼が大友と同い年であることを知って驚いた。小沼は1980年代のメセナ文化(特に西武による)の恩恵を多大に受けていたことについてどこかで語っていたと思う。大友もまたその時代に東京で活動をおこなってたはず。今活動しているフィールドが違っているように見えるけれど、同じ空気を吸っていて、かつては両者のフィールドも近かったのかも、などと思ってしまった。トークの前半には、サウンドスケープについての言及が主でちょっと想定の範囲内の話になってしまったが、後半はこれからの音楽のあり方や時代によって変化する音楽の意味(そしてリスナーの感受性)について話が及び面白かった。





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