スキップしてメイン コンテンツに移動

Otomo Yoshihide Quartet/Donaueschinger Musiktage 2005




Donaueschinger Musiktage 2005: Allurements of the
Otomo Yoshihide Quartet
Neos (2011-06-21)
売り上げランキング: 208379


先日のI.S.O.のライヴ会場*1で購入した大友良英の新譜がスゴいです。音源は2005年のドナウエッシンゲン音楽祭(ドイツの有名な現代音楽祭)でのもので、メンバーは大友良英(ターンテーブル、エレクトロニクス、ギター)、アクセル・ドゥナー(トランペット)、Sachiko M(サインウェーヴ)、マルティン・ブランドルマイヤー(ドラムス)という編成での即興演奏が収録されています。この音源、かなり前に発売が予告されていた気がするのですが、ようやく日本に入ってきたのですね。これを出しているNeosレーベルは音質にこだわりまくった現代音楽のレーベル。今回のアルバムはそのジャズ・ラインから発売されている模様。SACDとのハイブリットでマルチ・チャンネルでの才能が可能です。こちらについては再生環境がないので確認できていないのですが、ステレオでも抜群に音が良いのは分かります。音の質感がとにかく深くて、臨場感がある。これを大友良英の家で爆音再生したら住み着いていたハクビシンが逃げたそうですが、この音の迫力に圧倒されたのでしょうか。いわゆる爆音ノイズ系の演奏ではなく、微弱でデリケートな音が空間を交差する演奏ですが、音の向こう側からピリピリとした緊張感が伝わってくるようです。




ライナー・ノーツにはドイツの音楽評論家と思わしき人が禅を喩えにもってきていますが、ヨーロッパの人間ならば日本人が演奏しているこの音楽を聴いて、そうした紋切り型の表現をしてしまうのも理解できる。しかし、表面的には静的な音楽でありながら深層には動的な息づかいであるとか、目に見えない(音楽なので当たり前なのですが)流れがある。それが禅という言葉から人々が理解するイメージとはズレている。その一方で、井筒俊彦が言う禅道の本質とは重なり合う*2。小沼純一は「大友さん(の即興演奏)は音楽で物語を作るわけではないじゃないですか」と言っていたけれども、それはちょっと違う、と思っていて、ここにはちゃんと物語がある。もちろん、その物語はロマン派の音楽のように雄弁で説得的なものではないでしょう。たとえばリヒャルト=シュトラウスの交響詩とはどう考えても同じわけがない。しかし、耳を音楽の側に寄せていくことで、大友良英のこの音楽から物語を見いだすことは可能でしょう。ライナー・ノーツには「ヘルムート・ラッヘンマンのような」とも書かれているのですが、ラッヘンマンのように脱臼系/異化系の音楽とはまるで性質が違います。いわば鋼鉄のミリマリスムに徹することで、ロマンティシズムに到達するような感じがある。





近年、次第に一般的な認知度が高まりつつあり、またProject Fukushimaの立ち上げ以降さらにそれが加速しつつある大友さんですが、こうした《渋い音楽》への取り組みも依然として続けられている。ほとんど超人的な仕事ぶりに思われるのですが、こういう音源を聴くとリスナーとしては高い期待をクールダウンすることができなくなるような気がします(少し休んでも良いのでは? と心配しつつも、もっと聴かせて欲しい! 的な)。






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か