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読売日本交響楽団第516回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール


指揮=ゲルト・アルブレヒト
ブラームス:交響曲 第3番 へ長調 作品90
ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調 作品68

ゲルト・アルブレヒトの指揮を聴くのは2度目。前回はオール・シュポア、というすごいプログラム、かつ、ドイツの放送オケ風の芳醇で調和のとれた演奏で「曲はまったく聴いたことなかったですが、なんかすごかったです……」と強い印象があったのですが、今回のブラームスも素晴らしいかったです。すごい、滋味が。テンポ選択は少し速めかな、という感じなのですが、それで奇を衒うわけでもなく、じっくりと聴かせてくれる。すべてが良い塩梅で、しつこくもなく、ドライでもなく。

ブラームスの交響曲第1番も、第3番もド名曲ですからクラシック音楽のファンなら色んな種類の録音を棚にしまっているかと思います。スコアなんかも揃えちゃったりしてね。自分では「この曲については大体分かっているよ」というつもりでいる。でも、今夜のアルブレヒトの指揮は「この曲ってこんなに丁寧に演奏できるのか!」という驚きがありました。それはオスモ・ヴァンスカのブラームスがもたらす「変わってるけど、オラこういうブラームスなら素直にシベリウス聴くだよ」という驚きとはまるで別種のものです。

アルブレヒトの演奏には良い塩梅な流れのなかにおそろしく細やかな指示が聴き取れるようなのですね。流れる、けれども、そのなかにたくさんの量の情報がある。そしてその全てが有機的な意味をもっている。『スラムダンク』に譬えるなら「桜木君、いま流川君が何回フェイクを入れたかわかるかね? ?」のシーンのすごさ、と言いましょうか。

また、ここまでの音楽が一朝一夕にできるはずがなく、アルブレヒトの70年以上の人生と音楽キャリアの長さをコンサートのなかで見せつけられた気がしました。ただ単に歳をとったわけではない。読響の年寄り指揮者といえば、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキもいますが、彼がなんか偉大過ぎて現人神化しているのに対して、アルブレヒトはまだ人間で、ずっとこちらに柔らかい笑みを浮かべているような印象があります。ちょっと仕事が立て込んでいたこともあって、そういうときにはアルブレヒトみたいな音楽がグッとくる。なぜか難聴気味だった耳も終わるころにはクリアに……!(雑誌『壮快』的な感想)

今日の演奏会で退団される方への花束贈呈ではいつものように感激。こういう演奏が最後の舞台にできるのは、幸せなことでしょうな〜、と思いました。

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