五十嵐大介、面白い! まるで諸星大二郎とアビ・ヴァールブルグを繋ぐ漫画家とでも言いましょうか、『魔女』では世界中の魔女の伝承を題材にし、『SARU』ではヘルメス・トリスメギストスや孫悟空などが同じ源をもつスピリチュアルな存在である、というスゴいフカシが展開され、壮大でファンタジックなミステリに魅了されます。物語はとてもスタイリッシュで、語られるものの背後に語られたこと以上の教養・知識が伺える。そこが、諸星大二郎との読後感の大きな違いでした。ディティールが非常に細かい、けれどもそれが衒学趣味へと入り込まない。優れたバランス感覚。作家は漫画版『風の谷のナウシカ』の影響下にある、ということですが、それが納得できますし、黒田硫黄と親交がある、というのもなんだかうなづける。
『暗黒神話』、『風の谷のナウシカ』、『SARU』と並べて考えてみる。こうした並置が妥当なものかは分かりません、が、いずれも神話を取り扱ったマンガと呼べるようにも思います。ただ『SARU』だけがグノーシス的な二元論の性格を強く持っているのでやはり適当ではないのかも知れない。『暗黒神話』、『風の谷のナウシカ』は世界の理(ことわり)を主人公が探求していくことと同時進行で物語が進みます。『SARU』もまた、そうです。しかし、『SARU』は単純に世界の理に挑戦する人間の物語ではない。なにしろ、人間もまた世界の一部なのです。人 VS 世界の物語の形式は『火の鳥』にも共通していますが、人間の理への服従が描かれているのも『火の鳥』でした。
『SARU』が少し特殊に思われたのは、世界の理同士の戦いが展開される点でした。例えば、人間に見える世界の理屈、観測されうる世界の理屈、一言で言えば科学的な理屈と、眼に見えない理屈、感じることしか出来ない理屈、魔術的な理屈との戦いがある。また、見えない理同士での対立(それが二元論的な世界観を形成するのですが)がある。そうした戦いの上で動く駒のようなものとして登場人物を読むことができる。人間がとても醒めている、全員狂言回しのような役割に読めてしまうのもそのせいかもしれません。でも、面白い……! ので引き続き読んでいこうと思います。
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