はじめ、なにが書かれているのかよくわからなかったのだが、2回ぐらい読んだらそれなりに読めた。付録についてくるカール・レーヴィットによる「シュミットの機会原因論的決定主義」という論文を読みながら「政治神学」を振り返っていくと、なにが問題にされているのかがつかめると思われる(『政治神学』自体はあっという間に読み終わってしまうほど短い)。
たとえば戦争や紛争がおきた、とか、現行の法律にはそぐわない現実がある、とか、法律が意味をなさなくなってしまった状態(例外状態)において、主権者による決定が必要となる、とシュミットは言う。法律が意味をなしているとき、法律に従って国家におけるもろもろを運用していけばいいので、決定は意識されない。では、どのように主権者は決定をおこなうのか? そもそも、主権者とはだれで、なぜ、ソイツが決定をおこなって良いことになっているのか?
この問題を検討する前にシュミットは「いや、主権者がしゃしゃりでてくる前に、法律のほうを修正すれば良いんじゃないの?」と主張する立場に批判を加えている。ここは結構クドクドと書かれているのだけれども、一言でまとめるならば「いや、法律を修正するのにも決定する人がでてくるでしょうが!」といったところであろう。主権者の問題は避けられないのである。
で、本題の主権者はだれか? その正当性はいかに、といったところの変遷が辿られることとなる。ここで例外状態における決定が神学における奇蹟となぞらえられているのは、それが主権者をあらわにさせるから(なのだろう、たぶん)。絶対王政の時代なら話は簡単で、君主が神的な立ち位置にいて主権を振る舞っていた。そこには有無を言わせない正当性があった。その後、民衆に主権が移ると、人間はみんな善じゃん、とか、一般意志、とか、民衆主権の正当性を支える思想が台頭する。
ただ、みんなで話し合ったからそれでOK、正統だよね! みたいなのって、じゃあ、誰が責任とるんですか! みたいな話にもなる。そこでシュミットは、そもそも正当性とかっていらないんじゃないの? 議会つくって話し合いとかする必要ないじゃん? むしろ、決定が大事なんだよ! という人たちについて検討する。このとき検討されるのが反革命(つまりアンチ民主主義な)カトリック系思想家たちだ。
このパートで紹介されるスペインの思想家・政治家、フアン・ドノソ・コルテスが強烈で、本書のハイライトを演出しているといってよいだろう。ドノソ・コルテスの人間観は、性善説的な考えと真っ向に対立する。人間の本性は善どころか、極悪である。そんな人間に議論させて政治なんかやらせても破滅が待ってるだけである、政治参加しようとするブルジョワジーを見よ、ヤツらは無責任な討論をするばかりではないか! 王権なきあと残る政治とは、独裁しかない!! ドノソ・コルテスの政治思想とはこのようなものだ。
シュミットによるドノソ・コルテスの評価が面白いのは、ここにプルードンやバクーニンなどの無政府主義者との比較が入るところだ。カトリック的な権威主義と、無政府主義は対立する価値観を持つ。が、いきつく先は一緒なのでは、とシュミットは言う。バクーニンは、世の中が堕落しているのは人間の権力欲・支配欲であり、欲を悪だという教会こそが権威そのものだし、こうした欲の元凶だ、これを解体するには根本的に父権的な家族制度を解体して、母権制へ復帰するしかない!(楽園への回帰! フリー・セックス!)と主張する。これに対してドノソ・コルテスも、自分の理想が遂げられたときには、そもそも政治的なものも消失してしまって、楽園的なものにたどり着くであろう! と予見していたという。
ドノソ・コルテスが願った独裁も「だれによってなされるのか?」の問題があると思うし、そのへんよくわらないのだが面白い本だった。本書で問われている正当性の問題は、決定の妥当性をどのように判断するのか、を検討するニクラス・ルーマンの論文にも通じて読めるような気が。付録の論文を読むと、シュミットが「政治的なロマン主義者は、討論ばっかりして、政治をやるのではなくて、政治っぽいことをやることに満足してるようで良くない!」みたいなことを考えていたようで、そのあたり、現在生活している世の中のことと見比べると、ふむ〜ん、と思いました。
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