とくに筆者が思い描く「自由で素敵なインターネット」像は面白い。本書の内容、あるいは筆者の人格が語られるにあたって何度も指摘されているだろうけれど、この人の性善説ベースの考えというか、サービスの利用に厳しいルールを設けないことによって問題があったとしても「悪いものはある程度淘汰されて、最適化されるんじゃないの」という世界観が、「自由で素敵なインターネット」像を何倍もキラキラさせて見せてくれるし、その素敵感は未だに色褪せていない。
情報はどんどんオープンになったほうが良い、だとか、つながりが見えた方が良い、だとか、その後のインターネットは筆者が思い描いていた方向にある程度進んだ、と思われる。しかし、その行き着いた先に息苦しさがあったり、地獄を日々見せられてもいる。オープンにした結果、Twitterで大炎上(と言う名の『私刑』)だとか「自由で素敵なインターネット」からほど遠い現実が散見されたりして、どうしてこうなった、と思わなくもないし、所得や生活レベルの面で格差の拡大が、と言われる一方で、インターネットにも階層ができちゃってるのでは、とも思う(素敵インターネットユーザーと地獄インターネットユーザーみたいに。両者は敷居がなく生活して見えるのだけれども)。
ところで今これを書きながらインターネット(のサーヴィス)で生活が便利になったかを考えていたんだけれども、ちょっとは便利になっていることは認めるけれど、インターネットの進化によって「インターネット利用」が便利になった部分のほうが大きい気がした。
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