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Neil A. Manson(編) 『God and Design: The Teleological Argument and Modern Science』

God and Design: The Teleological Argument and Modern Science

Routledge
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インテレクチュアル・デザイン(ID)論に関する論文集を読む。このブログでは定期的に初期近代におけるデザイン論に言及した本を取り上げてきているが(例えば、メランヒトンイエズス会の布教戦略では、学問が世界のデザイナーである神を理解するために、神によって作られた宇宙や自然を理解する方法論として説かれていた)、本書は現代科学とID論である。いろんな論者が、量子物理学だったり、生物学だったりを取り上げながら、宇宙は知的なデザイナーによって作られたのか/違うのかを真面目に論じているのだけれども……読んでいて、正直「デザイナーがいようがいまいが、科学の営みになんか関係あるのか?」とかなりうんざりしてしまった。前述のメランヒトンやイエズス会の宣教師の時代であれば、デザイナーの存在が学問に対するモチベーションを支えていた、と言えるだろう。しかし、現代において科学が自己目的化し得るのであれば、デザイナーがいようがいまいが全然関係ないじゃん、と思う。

ID論者、マイケル・ベーエ(Michael J. Behe)やら、ウィリアム・デムスキー(William Dembski)たちが一生懸命「還元できない不可能性が!」とか「人間が存在できる宇宙ができたのはデザイナーがいなかったら考えられない! 宇宙は調整されてできあがっている!」とか言うわけです。でも、それはキリスト教的な神を知的なデザイナーと言い換えただけじゃん、とドーキンスじゃなくても突っ込みたくなるところだ。論文のなかで語られる、ウィリアム・ペイリーの「砂漠のなかに時計が落ちてたら……」みたいな説話とか、トーマス・ベイズが論理学によって神の存在証明をしようとしたとか(わたし、ベイズって最近の人かと思っていたので、そこで単純に驚いた)はイチイチ面白い。けれども、本書のなかでは一番面白いのはID論の批判者たちの主張だ(この論文集自体が、ID論万歳!な感じではない)。

例えば、多元宇宙論を想定すれば、自分が生きている世界を「なんらかの意志によって調整されたものだ」と思うのも単なる観測選択効果でしかなくなっちゃうよ、とか真っ当な指摘だと思う。宇宙にしても誕生からプランク時間(時間の最小単位)より前のことをまったく予測できないし、宇宙において観測できない領域が存在する。そうしたアクセスできないものに対して、超越的な存在を認識するかどうか、信じるかどうか、ってホントに当人のメンタリティーの問題に感じる。

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