Herbert Alan Davidson 『Alfarabi, Avicenna, and Averroes, on Intellect: Their Cosmologies, Theories of the Active Intellect, and Theories of Human Intellect』
Alfarabi, Avicenna, and Averroes, on Intellect: Their Cosmologies, Theories of the Active Intellect, and Theories of Human Intellect
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Herbert Alan Davidson
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小林の著作をアリストテレスの生成消滅論をフレームワークとして知性論の変遷を追う本だとするならば、ダヴィッドソンはコスモロジーをフレームワークとしている。人間の知性に関する議論になぜ、宇宙が関係するのか、と不思議に思う人の方が多いと思うけれど、アリストテレス主義の人たちは、宇宙を動かしている超越的な存在(ざっくりと神様的なものを想像されたし)から知的なサムシングがでていて、それを人間が受け取ることで知性を働かせることができるのだ、と考えていた。これがいわゆる「流出論」である。なお、アリストテレス自身はそういうことは言っておらず(超越的な存在の影響力は天体を動かすところで止まっている)、後の人がアリストテレスの議論の適用範囲を拡張して結果、こういう議論がでてきた。
アリストテレス主義的な知性論についてもう少し書いておこう。知性は人間の霊魂の働きの一部であり、また、知性は「能動知性」と「質料知性」とふたつのものにわけられる。霊魂はそのうち質料知性だけをもっていて、これは要するにものを考えるときの材料的なものとでも考えておけば良い。材料だけではなんともならないので、そこに超越的なところから能動知性がなんらかの働きかけをおこなう。その影響によって質料知性は、実際の「考え」(獲得知性)になる。
ファーラービーもアヴィセンナも基本的には同じように知性について考えているのだが両者の違いは、能動知性と質料知性の関係の仕方にあらわれている。ファーラービーは能動知性と質料知性が一体化することで獲得知性となる、そして能動知性との一体化が人間の最終的な段階であり、最高にハッピーな状態だ、と神秘主義的に説く。それに対して、アヴィセンナは質料知性が直接能動知性と一体化するわけじゃないのだ、むしろ、個々の人間が超越的な能動知性にアクセスすることなんかできなくて、能動知性から知性認識に必要なサムシングだけがやってきて、それで知性を獲得できるんだ、と言っている。
ファーラービーからアヴィセンナへの議論の変化は、超越的な存在と人間との関係が遠くなっていることのように捉えられると思うんだけれども、アヴェロエスに至っては、よりその傾向が明らかだ。前述の坂本さんのブログでも紹介されているように、アヴェロエスが当初ファーラービーとアヴィセンナの流出論を採用していたが、それを改めていったことを本書はとりあげている。かつては人間の霊魂の成り立ちには、能動知性の流出が必要不可欠だったのが、後期のアヴェロエスはそう考えない。超越的なパワーは不要で、自然学的な説明だけで霊魂の成り立ちを説明できるようになってしまう。
ここまで読んで、ふと思い当たったのが「本書もまた、神意から自然への変化をとらえた歴史書なんじゃないか」ということだった。時代が進むにつれて超越的な存在の役割がどんどん少なくなっていき、自然のなかで説明できるようになっていく(とくにこの変化はそれぞれの思想家の預言論を比較したときにより一層際立って見える)。扱っているものはまったく違うけれどこの変化は『驚異と自然の秩序』で描かれているものと同じ種類のもののように思うのだ。
長い議論をおこなったあとにかならずまとめや要約をおこなってくれている書きぶりの丁寧さもありがたい。なかなかこの本も必要としている人が限られてくると思うんだけれど、翻訳があると良いなぁ。
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