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左!











 イタリアのバンド、アレアの映像です。動くアレアを初めて見ましたが、なんでこのバンドのライヴ音源ってどれも音質がブート並なんでしょうか……非常に残念でなりません。演奏している曲は「L'internazionale」、今気がつきましたが、「インターナショナル」なんですね。このバンドには他にも「Arbeir macht frei」(労働、権力、自由)というタイトルの曲があり、言わずもがな彼らの左翼的思想を表しております。もろに*1真っ赤です。熱すぎ。





 以前、友人と話していたのですが現在のようにニューウェーヴ/ポスト・パンクが再評価される前はこのあたりの70年代のプログレ・バンドがもう少し語られていたような気がします(それは私がプログれてしまっていたから覚えるただの錯覚なのかもしれませんが)。いまやこの界隈で変わらない評価を受け続けているのはカンぐらいなものですね。しかもロック的な文脈というよりもフリー・ミュージック/エレクトロニカ的な文脈でのほうが評価が高い、というか。そういうのはまた別な話な気もしてくるのです。





 ここ最近「プログレ、プログレ」言っているのは、なんとなくプログレが黙殺されている、というか圧殺されている、というように感じるからでもあります。クールな時代ですから、こういった暑苦しい音楽が好まれない、というのは理解できますし、何も「プログレ聴けよ!」と声高に強制していく気持ちはありませんが、割と若い人のブログなどを読んでいて「その言葉は歴史を無視しちゃってるよなぁ」という感覚を覚えるのは否めません。例えば「日本の映画は黑澤さえいれば……」と言っている人に対して「小津は?山中貞雄は?若松孝二は?」と言いたくなってしまう感じにも似て「(歴史を無視しちゃってる感じが)暴力的だなぁ」と思ってしまう。どのように危険かは定かではないけれど、居心地が悪い。



Gioia E Rivoluzione
Gioia E Rivoluzione
posted with amazlet on 06.09.03
Area
Cramps (1999/09)



 今、この文章を書きながらアレアの『Gioia E Rivoluzione』を聴き直していましたが「過剰さ」があって、やはり面白い。変拍子で転がるグルーヴの上で鳴る安っぽい感じのシンセ・サウンドとか、デメトリオ・ストラトスの情熱的な歌唱などに笑えてくる感じ、というのは何かモリモリに体をビルドアップしたボディ・ビルダーがニカっと笑ってポーズを取っているのを観たときの笑いとても似ている感じがします。「何かが過剰である=何故か笑えてしまう」、こういう思考回路でしかプログレを聴けなくなってしまっていることもまた問題なのかもしれませんが……。





 いよいよ、何を言っているのか分からなくなってきました。とりあえず、今、人生何度目かの「プログレ・リバイバル」が自分の中で巻き起こっており、またしばらくは古いCDを引っ張り出して聴き続ける日が続きそうです。




*1:赤い旅団に誘拐・殺害されたモロ大統領にも名前をかけつつ……





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