スキップしてメイン コンテンツに移動

テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第11~25回講義メモと『精神的経験の理論について』について)




否定弁証法講義
否定弁証法講義
posted with amazlet on 08.01.03
アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
売り上げランキング: 17030



 1ヶ月半ほどかけてゆっくりと読み進めていた『否定弁証法講義』を読了。講義を録音していたテープが存在しない11~25回目の講義についてはアドルノが講義の際に参照していたメモ書きがその補完的役割を果たしているのだが、さらにそれを補うためにメモ書きの余白に書かれていた文章も収録されている。これが編者のロルフ・ティーデマンによってタイトルがつけられた「精神的経験の理論について」という文章である。


 おそらく、アドルノは講義全体のスケッチとしてこの文章を書いていたのだろう。アドルノ自身によるメモは、普通に読むとアフォリズム的に読むしかないような、ひどく抽象的なものなのだが、「精神的経験の理論について」とメモ書きを照らし合わせることによってある程度、どのような講義をおこなったかを想像することができるように思う。


 そこで想像できる内容は、10回までの講義や『三つのヘーゲル研究』あるいは、マックス・ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』とかなりかぶる部分があるので、ここで特に書いておこうというものはない。ただ、以下の引用部は非常に興味深いものだった。



自由を口にしながらも全面的に自由でないもの、それがもたらすのはもっぱら自由の戯画であって、それは現実の自由に誹謗中傷をくわえる。だからこそ、この戯画的な自由は自分の自律性を理論において体系にまで高めねばならない。その体系は同時に、そういう自由の強制メカニズムと類似している。(P.190。第14回講義メモより)



 これについてはピエール・ブーレーズの「音列の選択の自由という豊かな自由があるではないか」と対比して考えられた(この発言についてははてなキーワード、ピエール・ブーレーズを参照のこと)。アドルノ自身の文章では「即興的で自由な音楽と言われているジャズは、実は入念なリハーサルに基づいた『出来試合』でしかない(大意)」という批判や、12音音楽時代のシェーンベルクへの批判あたりが思い出される。これらは、アドルノにおける「自由」、または「自律」の概念を検討する際に、重要になってくるポイントであるように思う。


 アドルノは『新音楽の哲学』においてシェーンベルクとストラヴィンスキーという二人の20世紀を代表する作曲家をとりあげ、親シェーンベルク派的な立場から音楽論を展開している――と思われがちだが、実のところアドルノが全面的にシェーンベルクを礼賛しているというのは間違いである。アドルノが評価しているのは無調時代のシェーンベルクであって、12音音楽のシェーンベルクではない(これは『新音楽の哲学』の役者である龍村あや子も指摘している)。その批判の元となっているところにおそらく先で引用した「自由の戯画」というものがあるのだろう。


 このあたりは、かなり独特な評価のポイントである。ハンスリック的な観点からすれば、シェーンベルクの12音音楽は「絶対音楽の完成した形」のひとつとして評価されて良いものかもしれない。しかし、アドルノはそのような評価をおこなわない。なぜ12音音楽は批判されなくてはいけなかったのか。たぶん、これは『啓蒙の弁証法』でなされた道具的理性への反発とも関係している(……とかなり適当に書いてしまったが、もうちょっと落ち着いたらこの辺、がっつりまとめてみたいと思っています……)。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...