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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第11~25回講義メモと『精神的経験の理論について』について)




否定弁証法講義
否定弁証法講義
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アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
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 1ヶ月半ほどかけてゆっくりと読み進めていた『否定弁証法講義』を読了。講義を録音していたテープが存在しない11~25回目の講義についてはアドルノが講義の際に参照していたメモ書きがその補完的役割を果たしているのだが、さらにそれを補うためにメモ書きの余白に書かれていた文章も収録されている。これが編者のロルフ・ティーデマンによってタイトルがつけられた「精神的経験の理論について」という文章である。


 おそらく、アドルノは講義全体のスケッチとしてこの文章を書いていたのだろう。アドルノ自身によるメモは、普通に読むとアフォリズム的に読むしかないような、ひどく抽象的なものなのだが、「精神的経験の理論について」とメモ書きを照らし合わせることによってある程度、どのような講義をおこなったかを想像することができるように思う。


 そこで想像できる内容は、10回までの講義や『三つのヘーゲル研究』あるいは、マックス・ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』とかなりかぶる部分があるので、ここで特に書いておこうというものはない。ただ、以下の引用部は非常に興味深いものだった。



自由を口にしながらも全面的に自由でないもの、それがもたらすのはもっぱら自由の戯画であって、それは現実の自由に誹謗中傷をくわえる。だからこそ、この戯画的な自由は自分の自律性を理論において体系にまで高めねばならない。その体系は同時に、そういう自由の強制メカニズムと類似している。(P.190。第14回講義メモより)



 これについてはピエール・ブーレーズの「音列の選択の自由という豊かな自由があるではないか」と対比して考えられた(この発言についてははてなキーワード、ピエール・ブーレーズを参照のこと)。アドルノ自身の文章では「即興的で自由な音楽と言われているジャズは、実は入念なリハーサルに基づいた『出来試合』でしかない(大意)」という批判や、12音音楽時代のシェーンベルクへの批判あたりが思い出される。これらは、アドルノにおける「自由」、または「自律」の概念を検討する際に、重要になってくるポイントであるように思う。


 アドルノは『新音楽の哲学』においてシェーンベルクとストラヴィンスキーという二人の20世紀を代表する作曲家をとりあげ、親シェーンベルク派的な立場から音楽論を展開している――と思われがちだが、実のところアドルノが全面的にシェーンベルクを礼賛しているというのは間違いである。アドルノが評価しているのは無調時代のシェーンベルクであって、12音音楽のシェーンベルクではない(これは『新音楽の哲学』の役者である龍村あや子も指摘している)。その批判の元となっているところにおそらく先で引用した「自由の戯画」というものがあるのだろう。


 このあたりは、かなり独特な評価のポイントである。ハンスリック的な観点からすれば、シェーンベルクの12音音楽は「絶対音楽の完成した形」のひとつとして評価されて良いものかもしれない。しかし、アドルノはそのような評価をおこなわない。なぜ12音音楽は批判されなくてはいけなかったのか。たぶん、これは『啓蒙の弁証法』でなされた道具的理性への反発とも関係している(……とかなり適当に書いてしまったが、もうちょっと落ち着いたらこの辺、がっつりまとめてみたいと思っています……)。





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