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『センチメンタル・アドベンチャー』(クリント・イーストウッド監督作品)




センチメンタル・アドベンチャー
ワーナー・ホーム・ビデオ (2006/10/06)
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 よく考えたら鉄砲をバンバン撃ってないイーストウッドの映画を観るのはこれが初めてのような気がする……。『センチメンタル・アドベンチャー』(原題は“Honkytonk Man”。ものすごい邦題の四次元殺法である)。1982年公開のイーストウッド主演・監督作品。現在はジャズ・ベーシストとして活躍しているカイル・イーストウッドとの親子共演――という時点で評価を下げる人がいそうな気もするけれど(長嶋一茂がムカつくのと同じ原理で)、結構面白い映画だと思う。


 「才能はあるが肺病で体を壊したカントリー歌手が最後の希望をかけてオーディションを受けに行く」という過程を描いた割合ベタなロード・ムービーで、大した起伏もなく進んでいく。その代わりに速いテンポで話が進んでいくので、私のようなヤワな映画視聴者にも易しい。かなりぼんやり観ていても話が理解できる。映像の撮り方もイチイチ決まってるのだが、そういうところからも既知感であったり、記号性みたいなものを感じるのかもしれない。


 『ペイルライダー』が「なんかよくわからんが人知れぬ過去を持つ無茶苦茶強いガンマンが大暴れ!」という記号で出来上がった映画なのだとしたら、『センチメンタル・アドベンチャー』は「ものすごくしみったれてるけど『夢って大事だよね』的アメリカン・ドリーム演出型の“ええ話”」の記号で出来上がってるようにも思う。あまりにもベタで、あまりにもキマっている。ホントに絵に描いたみたいな「映画」なのだ。「ありえること」の過剰によって映画が「ありえないもの」と化してしまう。そこでは当然リアリティが希薄なものとなっている。


 これを「凡作!」と言い切ってしまってもたぶん全然OKなんだけど、それでも面白いと思うのはやっぱりイーストウッドという人の存在感というか特別さが関わってるんだろうと思う。


 とにかく、主演の彼の「ありえなさ」がすごいのだ。映画のなかで何度かむちゃくちゃにビルドアップされた彼の上半身が映るんだけど「こんなムキムキな結核患者いねーよ!」と全力でツッコみたくなるし、あと歌手の役なのに映画のなかで2番目ぐらいに歌が下手なのもひどい(脇役的に出てくる歌手がことごとくイーストウッドより上手い)。周りが必死で「ありえるように」取り繕っているのに、イーストウッドひとりだけ「ありえない人」で出てきている。だからと言って「ありえること」と「ありえないこと」のバランスが取れてるわけではなくて、ちぐはぐさが増しただけである。でも、そこが面白い。畸形っぽい感じさえする。そして、この気味の悪い映画を受け入れてしまっている自分も不思議なんだけど……。


 以前映画好きの友人が「最近のイーストウッド作品がやたらと重くて暗く思われてるのは、自分が主演じゃないからだ!きっと自分で出てたら観客も割と普通に観れてるはずなんだ!」とか言っていたのを聞いて、最近の作品一本も観てないからしらねーよ、とか思ってたんだけども、友人の言葉と『センチメンタル・アドベンチャー』に感じたイーストウッドの「強引さ」はかなり関係がある気がする。


 あと、イーストウッドってやっぱりテンポの速さで説明が不足してく点をベタな記号(とても受け手と共有可能なキーみたいなもの)で埋めてくところが目立つなぁ、と思った。この映画だとド田舎に来たらそこの住民はほとんど英語には聞こえない訛りすぎな言葉を喋ってたりするんだけど、これもかなり過剰な演出で、ほとんどドリフの域である。でも、そういう記号の組み方がすごくクールに機能しているところはホントに良い。特に冒頭から5分ぐらいはほとんど完璧な流れだと思った。ここは「あ、これ名画かも!」と思わせるパワーがある箇所でした。





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