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料理とモテとこどもの心性



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 写真は、私が使ってる包丁類。左から、ヘンケルスの万能包丁、チーズを切る用のナイフ(ギザギザしてるのでパンとかトマトとか切るのにも使っています。たぶん本当はダメだけど)、あと果物用のナイフです。この3本にヘンケルスの牛刀も加わる予定です(昨日、肉を切ろうとしていたときに万能包丁だと上手く切れなかったので)。包丁のトップ・ブランドであるヘンケルスのナイフはどれも高級ですが「ライン」というシリーズは割りと手ごろの価格帯。あと軽くて使いやすい。



Zwilling ライン シェフナイフ
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 さて、昨日のエントリについたブクマ・コメントを眺めつつ「まだまだモテ/非モテの文脈というホッテントリ資源(俺造語。適当にその資源について語っておけばそれなりにブクマがついてしまう……という便利なサムシング)は枯渇してないのだなぁ」と思ってしまいました。また、「料理が出来る男=モテ」という回収のされ方は果たして妥当なのか(あるいは、料理が出来る男は本当にモテるのか)、これも大変興味深いテーマだと思ったので少しこれについて書いておきます。


 個人的には「飾らない感じで、ごく自然に美味しいものが作れる人は男女問わず好ましい」と思ってしまいますが「なんか張り切ってる感が出ちゃってる人」は逆に浅ましさ、嫌らしさが出てしまってよくないようにも思います。いわば「料理と一緒に君もいただいきます感」が出てしまうとダメです。


 とはいえ、そこまで露骨な男性はなかなかいないでしょう。そもそも露骨な男性においては「料理は口実でホントのメインディッシュはワタシにちがいない!」と見破られ、料理を提供する以前の問題として片付けられてしまいます。相互に好意がある場合に限って「美味しい料理を食べさせてもらう代わりに、ワタシを……」というWin-Winな関係が築けるのかもしれませんが、いずれにせよ現実的にモテるためのツールとして料理を用いるのは難易度が高く、せいぜい「モテ感」を演出するためのツール程度に収めておくのが妥当でしょう。


 しかし、そのように現実的なモテとは無関係であっても、料理を「頑張る」男がいるのはなぜか――私はこの要因に、こども的な心性が大きく関連しているように思うのです。具体的な例をあげるならば、こどもがテレビマガジンの付録や、プラモデルを頑張って作って、それを誰かに見せびらかしたい、というような事象が適当でしょうか。何かをうまい具合に作って、誰かに褒めてもらう。このときに他者の側から送られる承認を男性は求めている――などと言ってしまうともっともらしいですが、料理を頑張る男性にはこのような幼児性が備わっているように感じられます。


 「料理好きな男ほど、道具にこだわる」という傾向も「男の子は乗り物と武器が好き」という傾向と並べてみると理解しやすいのかもしれません(単なる自己分析に過ぎませんけれど。今度はル・クルーゼの鍋が欲しいなぁ)。



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