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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第9回講義メモ)




否定弁証法講義
否定弁証法講義
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アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
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 引き続き、第9回講義。講義録部分が「クリスマスは学生もこないから休講です」というアナウンスからはじまりかなり和んでしまうのだが(1965年の大学生も今と同じで勉強と大学が嫌いである、ということだろうか。変わったのは火炎瓶を投げたりしなくなったことぐらいで……)、内容はかなりホットである。アドルノが講義の際に参照していたメモ部分からして立派なアフォリズムのように読める。以下、いつものように講義メモ。




 「私は絶対的に疑いえない確実性を哲学の<テロス>と見なしたりできません」(P.152)。哲学は、むしろいつでも誤りをおこしうるものとしてはじめられなくてはならない。ゆえに同じ(精神的)経験という概念を扱う場合でも、経験論的な哲学の流派やプラグマティズムと否定弁証法は異なった方法/視点を取る。単純に経験として与えられる事実(<剥キ出シノ事実>)に依拠するのと違って、否定弁証法は「<剥き出シノ事実>を自らの連関のなかに、そして同時に自らの意味のなかに取り込むような思考の態度」(同)である。


 しかし、このような精神的経験の扱い方が「素朴な哲学の態度」へと流れてしまう可能性も存在する。「精神的経験という方法には対象を精神化してしまう先入見がつきものであって、この先入見を自分自身のうちで繰り返し修正しなければならない」(同)。態度の物神化、対象の同一化/固定化を回避するために、否定弁証法は常に自己反省を必要とされる。Aである、という断定ではなく、Aであるかもしれない、という言い方。さらにそこでは、自らの「Aであるかもしれない」に対しても「Bであるかもしれない」と言う投げ返しおこなわなければならない。


 「哲学は本質的に遊戯という契機をそなえている」(P.153)≒「この世で芸術ほど真剣きわまりないものはないが、芸術はまたそれほど生真面目なものでもない」(P.154)。ニーチェやソクラテスを除くと、伝統的な哲学は遊戯という契機(おもいつき、直観)を排除する傾向がある。しかし、遊戯を排除して思考の体系(システム)をひとつずつ積み上げることによって、いずれ真理を捉えることができる、という素朴な考えはいまや持つことができない。遊戯という契機を保持することで哲学は「思考されえないものを想起させる」(同)。もちろん、遊戯という契機が「でたらめ」であってはならない。思いつきは思いつきであっても的確でなくてはならない。そのためにまた自らの思い付きに対しての反省は欠かすことができない行為である。


 (この関連部分で、アドルノが『真理に関与する』という言い方をしているのも興味深い。またここではホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』についても触れられている。主観的(哲学的・非合理的)理性/道具的(科学的・合理的)理性のちがいについて。『哲学はもっぱら、精神と世界、精神と現実の非同一性を確認をすることを通じて、真理に関与する』【P.156-157】。自らの考えに世界が当てはまっていることを、同じであることを確認することは哲学ではない)


 「自ら芸術作品になろうとするような哲学は、すでにそれだけで救いがたいでしょう」(P.161)。


 最後は「唯物論的と言われるマルクスにも、思弁的な思考/観念論的な思考が存在していた」みたいな話(これは、完全に実証できるものの存在のしなさ、あるいは対象へと直接触れることのできなさの一例として挙げられているように思う)。





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