スキップしてメイン コンテンツに移動

品格・横綱・アスリート




D


 先週の日曜日、大相撲初場所の千秋楽、白鵬と朝青龍の一番を観てから今週はずっと相撲のことばかり考えていた。今場所は、豊真将があまり勝ち星をあげられなかったことが残念だったけれど、魁皇がまた勝ち越してくれたし、十両優勝を果たした栃ノ心という若い力士を知ることができて個人的にはかなり面白いものだった。キズだらけで髷にもかなりギリギリ感がきている魁皇が勝つと、気持ち的に励まされるような気がするし、グルジア出身で悪い用心棒のような風貌をした栃ノ心は今から「幕内にあがっても前頭6枚目あたりをうろうろしてそうな雰囲気」を漂わせているところが良い。


 しかし、なによりも朝青龍が帰ってきたのが素直に嬉しい。相撲内容が良くない、と言われていてもやはり立会いでの鋭いぶちかましは健在で「のこった!」の掛け声の瞬間に場内に響き渡る衝撃音を聞くたびに「ああ、やはりドルジは俺の見たい相撲をするな」と楽しい気持ちさせられた。特に優勝をかけての白鵬との一戦は、平成の名勝負に数え上げられる名勝負。体格で勝る白鵬を態勢が悪い状態から吊り上げた瞬間に、背筋に走ったゾクゾク感と言ったらない。


 というわけで後3年ぐらい朝青龍と白鵬の二大横綱で角界を盛り上げてほしいものだな、と思う今日この頃だが、一方で「横綱の品格とはなんなのか?」ということについても考えさせられた。「横綱の品格に欠ける」と批判にさらされることの多い朝青龍であるが、そもそもその品格とはなんなのか、何を基準にドルジは批判にさらされなくてはならないのか……というところである。


朝青龍には横綱としての品格が足らんなっ!!:アルファルファモザイクだった


 このエントリでは過去の横綱の、「おそらく品格に欠けると思われる行動の数々」について触れられている。こうして比べてみると朝青龍の行動なんて大したことないような気もしてくるのは当然であるのだが、もっと考えるべきは「横綱に求められる品格」が大きく変質しているのではないか、というこのような気もしてくる。


 横綱審議委員の面々の朝青龍批判から、どのような「品格」が求められているのか、それを想像してみると「驕らず、常に鍛錬を続け、清廉潔白な態度、そして強さ」というところだと思う。しかし、「力士」というもう少し広い枠で捉えられるイメージとその「横綱の品格」を比較してみるとその品格がいかに特異なものであるかが浮かび上がってくるように思う。


 例えば、力士の食事について考えるだけでも良い。相撲取りとは基本的に「暴飲暴食」の人たちである。両国にあるちゃんこ屋で教えられたことだが、彼らはちゃんこのときに「丼に並々と注いだビールをしこたま飲む」という。また、いわゆるタニマチや後援会が開いてくれる宴会で力士が「食べないこと」は大変失礼なこととされ、否が応でも食べざるをえない。それゆえ体調を崩す力士もいるらしい。はっきり言って、クリーンさの欠片もない食生活である。格闘技界全般に言えることかもしれないが「黒いつながり」だって少なからずあるだろう。むしろ、クリーンさとは真逆なダーティな存在であるのが力士なのではなかろうか。


 あるいは、こんな風に言ってもいいかもしれない。「力士/相撲取りとは暴力的な存在である」と(食の暴力性、または相撲という行為そのものの暴力性)。このような暴力性は、彼らが相撲取りである、つまり一般的な社会とは全く別な儀礼・習慣の中にいきる「異端者」として扱われることによって許容され、また、逆に暴力的であることを求められてきた(社会のルールとは違ったルールが敷かれた、日本の伝統的な世界では梨園もそのひとつとしてあげられるかもしれない)。


 にもかかわらず、朝青龍はクリーンさが求められている。白鵬が今ほど完成されておらず、朝青龍が絶対的な強さを誇っていたのにも関わらず、(かわいがり≒リンチ疑惑があった)千代の富士はバッシングを受けていない。同じように絶対的な強さを誇っていたのも関わらず、である。これは時代の変化という要因もあるだろう。しかし、そもそも朝


青龍批判をするものが「力士」という存在を誤認しているところに問題があるようにも考えられる。「角界の代表」として横綱を捉えるならば、天性のヒールである朝青龍は「もっとも暴力的な存在」であっても良いはずだ。


 彼らの“誤認”をひとえに「横綱のトップ・アスリート視」と言っても良いように思う。そこでモデルとなっているのは(現役時代の)中田英寿やイチローの存在である。驕らず、常に上昇し続けることを望み、清廉潔白で、素晴らしい成績を残す「アスリート」。たぶん、現在においてスポーツ界全体で選手に対して、そのような修行僧的な姿が求められている傾向がある。その流れが角界にも波及していることの象徴として、朝青龍批判があるのではないだろうか。


 「良い相撲、ユニークな相撲がとれる力士なら、なんだって良い」と思っている私のような立場からすれば、これはいささか煩わしい傾向である。朝青龍の批判者のなかには「相撲のスポーツ化」を嘆く人もいるようだが「本当にスポーツ化を進めているのは誰なのか」と逆に問いかけたいような気持ちにもなる。そういう意味で内舘牧子は相撲センスが欠落していると思う。本当に小橋のプロレスが好きならば、ドルジの相撲を批判できるわけがないんだ。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...