「モリエール一気読みプロジェクト」第5弾は『町人貴族』を。これは貴族に憧れる金持ちの商人が、貴族に振る舞いを近づけようとすればするほど滑稽な姿になっていまい、最終的には周囲の誰もが主人公を騙すような形で(誰からも馬鹿にされている形で)終幕を迎える、という話である。主人公は価値観のすべてを外部へと委ねる。主人公にとっては、あるものが貴族的なものであれば、それは良いもの、高尚なもの、ということになる。あるものが貴族的なものかどうかは、自分が判断する事柄ではない(なぜなら自分は貴族ではないからだ)。誰かが「○○は貴族的ですよ」「貴族は皆そうしています」などと言えば、すぐさまにそれを受け入れてしまう。ここに滑稽さが生まれる。端から見れば、主人公がかわいそうなぐらいに彼は馬鹿にされ、そして騙される。しかし、彼は一向にそのことに気がつく様子がない。だから逆に、もっとも幸せを掴んでいるのは騙される側だとも言えるかもしれない。「騙される」ということは事後的にしか確認できない。騙されていることに気がつかないということは、つまり騙されていないということだから。
テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...
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