メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』

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汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)
メアリ ダグラス
筑摩書房
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 いわゆる文化人類学関係の本を読む機会は年に一、二度ぐらいある気がするが、大抵中盤ぐらいまでで飽きちゃって後半は消化試合、っていう結果が多い。しかし、しばらくするとまた「あ、コレ読んでみようかな」とか「コレ読んでなかったな」とか思って買ってしまったりする。メアリ・ダグラスの古典『汚穢と禁忌』は以前、id:contractioさん*1が名著とブログに書かれていたのを思い出して読んでみた。やはり後半飽きてしまったのだが、それでも前半部分で展開されてる「これまでの文化人類学の何がダメだったのか」という話は刺激的だった。





 「これまでの文化人類学・宗教社会学は、聖と俗をはっきり分けすぎ」、「現在の我々の価値観に当てはめて、ある社会を分析するなんてダメすぎ」というのが著者の言い分だ。たとえば、ユダヤ教やイスラム教徒のあいだでは豚肉が食べちゃダメなものとなっている。それをある解釈者は「ユダヤ教やイスラム教が生まれてきた土地はいずれも熱い土地だし、そんなところで豚肉を食べるのは危険だ。衛生的な合理性を古代の人たちも気がついたからそういう戒律ができたのだろう!」と説明してみせる。しかし、すべてがそのように近代の衛生学的な観点から説明できるわけではない。そこではある社会における「汚穢(けがれ)」と、近代衛生学的な「汚染」とが一緒くたにされてしまっている。





 一方、著者が提示する「汚穢」の定義とは、ある象徴的な意味の体系を乱すもの、ということになる。豚を食べちゃいけない、というのは衛生学との偶然の一致であり、近代文明の合理性へと、ある文化の意味体系を翻訳することは不可能だ、と著者は考える。むしろ、そういうふうに解釈をおこなうことが、文化人類学の発展の妨げとなる。ある社会の意味の体系はそれ自体として分析されなくてはならない。それに我々が現在生活しているこの社会の意味の体系も、すべてが合理性のなかに回収できるものではないのだ。





 個人的に、著者が考える「汚穢」の定義は、とても納得できるものだった。たとえば、部屋が散らかっているときなどに、不快感を感じることがあるだろう。本棚がゴチャゴチャしていたり、CD棚の「Bの作曲家」のコーナーに「シェーンベルク」のCDが混じっていたりしたときの不快感は、ある種の秩序が見出された状態に感じるものである。それは、著者が提唱している汚穢と一致する。もちろん部屋が汚いときの汚穢の感覚は、衛生学とはほとんど無関係に発生する。ベートーヴェンのCDのとなりに、シェーンベルクのCDがあったからといって疫病が発生するわけでもない。また、部屋が汚いと生産性が落ちて……といった合理主義的な観点も意味をなさない場合がある(少しゴチャゴチャしていたほうが仕事がはかどったりするだろう)。これらは我々の世界もまた「象徴的な意味の世界」であることを証明しているように思われた。




*1:a.k.a 錯乱野郎





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