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Date Course Pentagon Royal Garden 菊地成孔 同一の呪法による二つの儀式 菊地成孔と菊地成孔によるダブルコンサート 巨匠ジークフェルド/菊地成孔 ダブルコンサート二日目 @新宿文化センター




FRANZ KAFKA’S AMERIKA
FRANZ KAFKA’S AMERIKA
posted with amazlet at 11.02.20
DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN
Pヴァイン・レコード (2007-04-06)
売り上げランキング: 67693



 (タイトル長!)活動再開後DCPRGの首都東京における二度目のライヴは《野戦》から《室内戦》へ。会場の新宿文化センターはステージ向って右手にパイプオルガンがあるホールで演奏中のライト演出の最中にそれを眺めると、『猿の惑星』に出てきた核ミサイルを偶像として崇めるミュータントの基地を思い出した。密室に群れた観客は熱狂するカルト信者たちのようにも見える。音を求める信者たちはグルが語るグルーヴの始原に関する偽史を聞く。鼻の先と前歯がベース音によって震え、腰が奇数拍子と偶数拍子のどちらかに合わせて回転する。戦争を模した音楽、呪術を有した音楽。どちらの意味でもDCPRGの音楽は、日常から一時的に観客を離脱させる効用をもつ。オーケストラも演奏が可能な広いステージから飛んでくる音は多幸感をもたらし、私はそれに飲まれた。





 聴きながら考えていたのは、音楽の具体性と抽象性について。奇しくも現代音楽の世界では、具体音楽のほうがわけのわからない音楽(一般的な《音楽》のイメージから遠い)になるけれど、それとは関係がない。考えていたのは、もっと観念的な問題で、我々はどういう音楽を抽象的な音楽とよび、どういう音楽を具体的な音楽とよぶのか、についてだった。音楽は音だから目に見えない。だから「具体」を与えることはできない。「○○のメロディ」とあるメロディに名前を与えることは可能だが、そこで名指しされた○○と、メロディの間には直接的な関連はない。例えば「かえるのメロディ」があって、それが誰もに「かえるのメロディは、たしかにかえるっぽい」と納得されているとするならば、それはメロディとかえるのあいだに媒介となる何らかのイメージがあって、それがメロディとかえるとを繋いでいる。そうではない、本当の「かえるのメロディ」があるとするならば、それは音楽ではなく、かえるのメロディっぽく聞こえる鳴き声、ということになるだろう(現代音楽の具体音楽で用いられる音とは、そうした《○○の音》だ)。だからあくまで音楽の具体性とは具体《的》なものである。ただ、モノとメロディとをつなぐイメージを喚起する強さ(印象)が強いほど、それは具体《的》の《的》は強くなっていくように思われる。いわば、メロディの存在感や力強さは音楽の具体性と直結しているのだ。





 DCPRGのライヴへと話を戻そう。どうやらDCPRGのライヴは「ジャングル・クルーズにうってつけの日」から始まるのが形式化されているようだ。これは彼らが活動休止前に発表したアルバム『フランツ・カフカのアメリカ』の一曲目に収録された曲で、非常に決まりごとが少ないシンプルな作品である。テーマとなるメロディの存在感は希薄で、ひとつのベースのリフレインとポリリズムのうえで、各即興者が自由にソロを取る。ゲームのように即興者が交代され、度々ゲネラルパウゼがとられ、また音楽が再開する、この繰り返しによって音楽は構成される。この音楽的特徴は、その後に演奏された『構造と力』、『アイアンマウンテン報告』に収録された曲と比べても特異だ。なかにはこの曲を退屈だ、と感じるリスナーもいるのではないだろうか。キャッチーなメロディがない。菊地成孔の言葉を借りるならば、これは《甘い皿》ではない。そして、こうした音楽が抽象的な音楽と呼ばれる……のではないか、と思ったのだった。





 ただ、こうした抽象的な感じが音楽の評価に比例しているか、といえばそれはまた違った話となる。というか、私としてはこの抽象的な音楽性が今最もこのバンドの素晴らしい部分の発露になっている、と考えている。各演奏者の素晴らしいパフォーマンスが長大に披露される「ジャングル・クルーズ……」の後では、はっきり言って、どんな作品もケレン味のあるサービスに思えてしまうぐらい圧倒的なものだ。で「ジャングル・クルーズ……」がもつこの反比例(?)から、中期プラトンを思い起こしたりもしたんだが、そこまで今日は書く元気がないので興味がある方はこちらを読んでください。





井筒俊彦『神秘哲学』を読む #6 - 「石版!」





 さて、もうちょっと《具体的な》ライヴの感想を書きますけれど、津上研太・坪口昌恭・大儀見元の活動休止前からのメンバーの演奏はブラボーでした。とくに津上によるアンコールでのソロは超スムースでグッときました(あま~い、ともはや誰のネタなのかもイマイチ定かではない叫びをあげたくなるほどに)。千住宗臣のドラム・ソロも超ブラストしてて大爆笑しましたし、大村孝佳のバリバリのメタルっぷりも最高でした(このバンドにメタルのギタリストがいる意味は、とても重要だと思います)。ホールでのライヴは、座ったり立ったりできてすごく楽!!





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