クリント・イーストウッド監督作品『ヒアアフター』

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 前作の『インビクタス』に引き続きマット・デイモンを主演に据えたクリント・イーストウッド最新作。なんだか「『グラントリノ』はやはり生前葬だったのか?」と思われるような作品だったと思います――しかし、これはネガティヴなコメントではなく、むしろポジティヴに評価していきたいポイントです。芸術家には三種類の人間がいて、ずーっと同じことをやり続ける人と、どんどんどんどん複雑で巨大なモノを制作していく人と、それとは逆にどんどん作るものをシンプルにしていく人がいる……というのは単なる私見ですが、イーストウッドは前述したなかでは最後のタイプ「どんどんシンプル派」の人に思われてなりません。前作は一言で言えば「ラグビー大好きオジサンのために皆で力をあわせて頑張る!」という話でしたが、今回は「誰の人生でも、なにかが起きて、それですべてが変わってしまうことがある!」という風にまとめることができるでしょうか。





 恋人と楽しくバカンスを過ごしていたはずなのに、津波に出くわして死に掛けた(それどころか恋人も仕事も失ってしまった!)。さっきまでは仲良くしていた双子の兄弟が事故で死んでしまった(もしかしたら自分が死んでいたかもしれないのに!)。小さいときに高熱を出して手術をしたら死後の世界がみえるようになった(奇人変人扱いで結婚もできない!)。この映画はこのような、なんの前触れもなく「なにか」に出くわしてしまった人たちの映画なのだと思います。なにが起こるかわからないし、なんだかわからないうちに出来事が決められている。こうした偶有性が映画のなかで強調されているように思われたのですね。例えば、双子のどちらが兄で、どちらが弟か、これもまったく遇有的な事柄で、今回の映画のなかではたまたま兄(言うまでも泣く、先に生まれたほう)が、弟を引っ張るような性格で存在していますが、それは偶々兄として生まれたこどもが、兄的な性格として生まれてきただけのこと、あるいは兄として生まれたことども偶々な兄として育てられただけのこと。仲良し双子の兄弟が、ヘロイン中毒のダメ母親の下に生まれてきて《しまった》のと同様に、因果が認められません。





 しかし、そのように因果が認められないからこそ、人間は自分には見えない場所に運命や神といった超越的なものを設定するのであり……とか言っていると、また似たような話か……と思われかねないのでやめておきます。しかし、『ヒアアフター』からは「シンプルな物語の作り方」を学べるような気がしました。「なにか」さえ起こってしまえば、それが物語になってしまう。あらゆるものから物語が発生してしまう。それはあらゆるものを物語として読んでしまうビョーキかもしれません。偶々今回の主人公の造詣は、ディケンズおたくで、毎晩アメリカ版ラジオ深夜便を聴いて寝る(なぜかイタリア料理を習ってみたりもする)、という良い感じの設定なんですが、これは別に必然性がある設定はない。そうした性格と「なにか」がおこることの間にはなんの因果もない! が、「なにが」がおこってしまえば物語は始まってしまうんだよ!!





 ……と無駄に熱くなってしまいましたが、もうひとつのテーマはずばり「コミュニケーション」でしょう。主人公は人の手をつなぐと「ズンッ」という重低音が聞こえて(そういう演出なんです)死後のヴィジョンが見えてしまう霊能力者なんですが、彼のもとにはいろんな人がやってくるわけです。みんな死んだ人に会いたいの声を聞きたい、と言ってね。彼は霊《媒》師という言葉がありますけれど、ここで彼はまさに媒体(メディア)としての役割を果たします。でも、メディアであると同時に、彼はひとりの人間でもある。彼がメディアとなるときに、彼がメディアになってくれるよう依頼した人物の情報や秘密が、彼の元に残留してしまう。こうして主人公は、依頼主の隠された情報、表に出ない情報を手に入れるのですが、しかし、そうした情報を得ることによって、主人公と依頼主の関係性が破綻してしまう、ということがあり得る。「知らないほうがいいこともある」。これは劇中でも登場するセリフでありますが、まさにその通り。相手について深く知ること、深く理解することが、必ずしもコミュニケーションを円滑にするわけではないことをこの映画は物語っている。主人公が自分の能力を披露することを拒むのも、ある種の《思いやり》として捉えることもできるのです。



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 以上に書いたのは、私の学生時代の先生であった奥村隆先生の本に寄りかかってお話でした。ただ、この映画では深い理解によってコミュニケーションが破綻する例でだけではなく、主人公が自閉した人物の《扉を開ける》(これも劇中の表現です)ことによって、新たに「なにか」が始まることも描かれています。あらかじめ扉をノックして「開けて良いですか?」と訊ねることができれば良いのでしょう。扉が開けられてはじめて、何が入っているかがわかる、というのにはリスクが伴うのです。《思いやり》とはそうしたリスクを回避するための術でもあるのですね。サントラは、今回もイーストウッド本人。優秀なアレンジャーと一緒に仕事をしている、とはいえ、これではイーストウッドが今世紀最大のメヌエット作家になってしまうのではないか、というチャーミングな曲が書かれています。短調の劇的なアレグロや悲哀に満ちたアダージョが書けないだけだと思いますが、イーストウッドの書くメロディには確かに彼のクセがいつも認められ、それがどんなメロディだったかほとんど記憶に残らないものの、聞けば「あ、また自分で書いたのか」と気がつける記名性が謎です。





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