スキップしてメイン コンテンツに移動

井筒俊彦『神秘哲学』を読む #5




神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
売り上げランキング: 130301


 本日は第二章第二節「洞窟の譬喩」に入っていきます。これはプラトンの『国家』に出てくるとても有名な説話ですね。『国家』は当ブログの記録から調べてみたところ、4年ほど前に読んでいたようです。例によってあまり内容を覚えていないのですが、洞窟の比喩はかろうじて「そんな話しあったなあ」ぐらいに覚えていました。井筒はこの比喩にプラトンのアナバシス(向上道)とカタバシス(向下道)が表現されている、と言います。しかし、まずは『国家』未読の方向けにもこの比喩がどういった状況のお話をしているのか、について知っておいたほうが良いですね。「国家 洞窟」でググッてみたらWikipediaにも「洞窟の比喩*1」という項目がありました。この比喩で鎖で縛られ、実体の影しかみることができない人々の姿は「感性的世界に生きつつそれに満足し、これを唯一の現実と信じている日常的人間の状態」なのです。彼らは生まれてから実体の影しかみたことがない。それゆえに影が真の現実だと思っている。そこで人々の鎖を解き、無理やりに後ろを向かせたらどうなるでしょうか。後ろには影を作り出していた光源である火がありました。影ではなく初めて光を見た彼らはの目はその眩しさに苦痛を感じるでしょう。それどころか目が眩んで何も見えなくなってしまうかもしれない。





 そこで誰かが目が眩んだ人々に「君たちが今まで見ていたものは影であって、ホンモノは後ろ側にあるんだよ」と教えても、彼らは影こそが実体であるという認識に慣れきっているからなかなか信じてくれない。実体は眩しくてよく見えない。影のほうがよく見える。だからやっぱり影のほうがホンモノなんじゃないか? 囚人たちはそのように考えます。よって、囚人を解放するという試みは失敗する。だが、それは完全に失敗したわけではないのです。それまで自分の背後に世界があることを知らなかった囚人たちは、自分の背後にも世界が存在することを知る。「この新しき光の世界が彼にとって如何に不気味であり、如何に不愉快なものであるにせよ、ともかくそれは或る全く別のものの開示であった」(P.53)。ここで今度はすかさず囚人を洞窟の入口に連れ出してみます。太陽の光が射している世界へと彼らを連れ出すのです。





 火をみたぐらいで目が眩む彼らですから最初は太陽が眩しすぎて何も見えません。だが、徐々に慣れてくるとその光の世界になるものを確かめられるようになってくる。ホンモノの世界の実体を彼はありありと目にすることになる。すべてを理解した彼は、まだ洞窟のなかに残っている囚人たちを哀れみ、自分の境涯の変化を幸福と感じるに違いありません。今、彼はホンモノの世界を認識したのです――ここまでの行程が、プラトンがいうアナバシスの描写である、と井筒は言います。囚人たちが振り返ること、これは感性的現象世界から叡知的実在界への全人間的方向転換として捉えられる。この話における太陽には、全実在の根源たる「善のイデア」の役割が与えられ、それを見られることはすなわち善のイデアを観照できることを意味します。それが認識の最高段階であり、それ以上のものはない。これより上には神の境位しか存在しません。するとこんな風なことが言えます――「人は神に対する相似性を極限にまで推し進めることはできるが、其処には常に必ず最後の一点が残る。而もこの最後の一点が極微極小に圧縮された場合と雖も、それは両極を無限の懸絶によって乖離せしめるのである」(P.59)。いかに近づこうとも、神との同一になることはできない。ここに再び、遠くて近い神のパラドクスが生まれます。このパラドクスは第一章でも触れられたことですね。





 さて、こうして善のイデアを観照する人がホンモノの世界にとどまりたいと思うのは当然のことでしょう。もう二度と洞窟になど戻りたくない。「一体、人間の目が眩むのは、光から急に闇に転入せる場合と、逆に闇から突然光に向った場合との二種がある」(P.61)。洞窟に戻れば彼はまた目が眩んでしまう。洞窟に残った人々に、洞窟の外の世界を語ったとしても「嘘ばっかりつきやがって! コイツは外にでて目をダメにしたんだな!」と愚弄されてしまうでしょう。しかしそうした苦難が予想されてもなお、彼は洞窟に戻らなければならない。これがカタバシスです。「善のイデアを直視した嘗ての囚人は、充分に仔のイデアを観照せる後、速に洞窟の底に還り来って、良きにつけ悪しきにつけ囚人達と同じ労苦と栄誉を相分たねばならないのである」(P.62)。ここにプラトンの倫理が現れます。個人的救済は、万人にわかたれて全人類的救済にいたるまで続けられなくてはならない。理想国家の建設とは、そうした善のイデアを観照する者の使命でもあるわけです。





 井筒曰く洞窟の比喩に表されたアナバシスとカタバシスの構造は西洋神秘主義の主体的基本構造となったそうです。しかし、この比喩には、イデア体験の内実が一切書かれていない。イデア体験の内実は、直線の比喩を見ていかなければなりません……ということで本日はここまで。次回は第二章第三節「弁証法の道」を見ていきます!






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か