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大友良英 他 『クロニクルFUKUSHIMA』:まだ戦争は終わっていないし、これからを考えるために




クロニクルFUKUSHIMA
クロニクルFUKUSHIMA
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大友良英
青土社
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『クロニクルFUKUSHIMA』は、遠藤ミチロウ、大友良英、和合亮一らを発起人として立ち上げられた「プロジェクトFUKUSHIMA!」が今年の8月15日に「フェスティバルFUKUSHIMA」というイベントを開催するまでの記録。まだ何も終わっていないし、問題が山積みな状態に関わず、タイトルに「年代記」と冠せられているのに少し違和感を感じてしまうのだが、これは「年代記のはじまりがこの本に収められている」という風に理解すれば良いのだろうか。「対話と日記でたどる3.11の絶望から8.15の奇跡まで」というキャッチ・コピーも《現状》を、まるで物語のパッケージのなかに封じ込めてしまうようである。仮に「奇跡」が起きていた、としても、それによって問題が解決されたわけではないことは言うまでもないことだから。ただ、個人的に感じとってしまったこれらの問題は内容とはまったく関係ない。





本書で読むことができる大友による日記と対話録によって地震発生直後の気持ちが喚起されせられる人も多いと思う。これは私が少なからず「プロジェクトFUKUSHIMA!」に関わった者だから、というわけではない。多くの人たちにとって、今年の夏は《特別な夏》だったハズだ。フェスティバルに足を運んだ人にとっても、運んでいない人にとっても。水素爆発の光景をテレビで観たとき、あるいは水道水から放射性物質がでたときの恐怖や戸惑いが時間の経過とともに徐々にフェイドアウトしていったり、一方で不安が自意識の底に不気味に横たわって居残っていたり……という奇妙な半年。記録を追うことによって読者は、改めてその奇妙さを確認し、そして自分は当時どう考え、何をして生活していたのかを整理できるようにも思われる。地震からもう半年以上も経ってしまった。あまりにも早い半年だった、と半ば愕然としてしまう人もいるのではないか。





ただ、本書はそのように過去を振り返るためだけの本ではない。むしろ、福島、そして日本が抱えて続けているとても大きな問題を、人間の不安や怒りの言葉を通して確認し、これからを考えていくための本、というか、考えのきっかけになる本だと思う。「弾が見えないだけで、まるで戦場」という大友の言葉は少しも誇張ではない。戦場の偏在を本書は声高に主張している(追記:とはいえ、どこにでも戦場があるからといって即ち、殺伐とした総力戦のような日常を過ごす必要があるわけではないのだろう。戦場という比喩は総力戦末期の困窮と抑圧のイメージと結びすぎているようにも思われる。沖縄や9.11以降のアメリカが過ごしていた日常、とはもしかしたらこういうものなのかもしれない。本書のなかでも沖縄の基地問題についての言及があり、地震があって初めて基地のことが身近に感じられることができるようになった、という発言もあった。それは問題の詳細を知ったことによる理解の形ではない。共感による理解なのだろう)。





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