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荒俣宏 『決戦下のユートピア』:苦境のなかにも文化あり、戦争のイメージに生活の色を加える名著




決戦下のユートピア (文春文庫)
荒俣 宏
文藝春秋
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「戦争はツラい」、「戦争は悪だ」、「戦争は厳しい」という教育を子どものころから我々は受け続けている。それの良し悪しを問うわけではない。けれども、ときどき思うのは戦争下の社会のイメージはあまりにも第二次世界大戦末期の困窮と終末感と結びつきすぎているのでは、ということだ。かのクラウセヴィッツは『戦争論』において「総力戦」という国家が一丸となって戦争という事業に取り組むコンセプトを提出した。我々を支配する戦争のイメージはこの総力戦のイメージと重なるだろう。だが、それが本当に適用されるのはふたつの世界大戦だけであって実はそれは特殊なイメージだったのでは、と思うのだ。特に3月に地震が起きてからの生活に戦争のメタファーが用いられるようになると、イラクで戦争をやっていたアメリカの生活というのもこういう感じだったのでは、と想像してしまう。国が戦争をやっていても日常はあるし、文化もある。戦争をやっているからといって、すべてが例外におかれ、生活が一変してしまうわけではない(もちろん一変してしまう人もいる)。





荒俣宏の『決戦下のユートピア』は、第二次世界大戦中の日本における文化や生活にフォーカスを当てた歴史読み物だ。荒俣は高見順や永井荷風が書き残した日記や、当時の婦人雑誌から、戦争イクナイ!教育からは伺いしれない生活の模様を描こうとする。





例えば、ファッションの面では銃後の女性は何を着るべきか、について巻き起こった論争が取り上げられている。動きやすく、さらに使用する布地が少なくて済み、かつ、女性の美意識を満たす衣服とはなにか? 「もんぺ」は古くから日本に存在していたものだったが、こうした要求によって注目を浴びるようになった、と荒俣はまとめる。しかし、これもやはり人気がなく(もんぺは上着を和服にすると裾を巻き上げなくてはならず、腰のあたりに膨らみができてみっともなくなる。このため、もんぺを着るときは上着はシャツやブラウスのほうがキレイに着こなせる、という不思議な衣服だった。そもそも、農耕服みたいなものなので都会の女性には敬遠されていた、という)「標準服」という服を仕立てるときはこういうものにしなさいよ、という見本としてしか権力によっては制定されされなかった。これは女性の美意識が権力を困らせた、という大変面白い例である。標準服としてもんぺが採用されてからも、高級布地を使った「流行性をそなえたもんぺ」を作る女性もいた、というのだからますます面白い。





戦争下の「臣民」は、権力によって洗脳されるように抑圧され、従属するしかなかった……などという灰色のイメージに、本書は、風俗にいきる人間らしさという色彩を加えるようである。後半は大戦末期の混乱が伝わってくる内容で、前半のように面白い可笑しく笑えるようなトーンが薄れていくのだが、これもこれで面白い。社会がいよいよもって打つ手なし、絶望的で、もう終わりを待つしかない、という状況になると、どういった思想が持ち上がってくるのか、それを考えるヒントになる。当世に生活する人間として、こうした過去の空気を知ることで、現在の空気の変化にも敏感になれるのではないか。





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