社会、に生きる人間として我々は日常的に言語を操り、文字を書いて暮らしている、その様子はごく自然なものであって、たとえばある対象と意味の関係は、その対象にもともと備わっている本性から自明的に発生するかのように振る舞う。しかし、一度立ち止まって考えれば、どうしてその対象とその言葉が結びついているのか、その理由はとても曖昧なもので、立ち止まってしまった瞬間に関係が崩れてしまうこともあるだろう。一義的に捉えられるはずの意味も実は多義的に意味されることもあるはずで、言語とはとても緩やかな規則によって成立している。緩やかな規則がなければ、暗喩は生きないだろう。
本書の面白いのはこうした意味の曖昧さや、意味のゆるやかさを前にして、そこでいちいち立ち止まって考えている点にあると思う。そこは筆者の翻訳家としての習性か、あるいはもともとそうした性格に生まれついてのことなのか。たとえば、筆者はこんな風に綴っている。
赤ん坊。よく考えると不気味な言葉だ。
もしも自分が意味を知らずに「赤ん坊」という言葉と出会ったら、どんなものを想像するだろうか。
よくわからないが、たぶん何らかの生き物なのだろう。全身んが真っ赤でてらてらしている。入道のように毛のない頭から湯気を立てている。夜行性で「シャーッ」と鳴く。凶暴な性格で、小動物や人を捕らえて生で食らう。後ろ足で立ち上がると体長十五メートルほど、大きいもので五十メートルにもなる。
荒唐無稽といっても言い、言葉に対するイメージの貼り付けだ。本来の意味から自由に逸脱した遊びがここにはある。この想像(というか妄想)は、深く迷宮的に連なっていき、ページが尽きるまで続いていく。読み手はよくこんなことまで思いつくな、と笑いながら感心するしかない。言葉とイメージの遊びが創造の源泉になっていることを意識させてくれる。
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