内橋和久主宰によるインプロヴィゼーション・トリオ、アルタード・ステイツのライヴを観ました。内橋和久のギター演奏をライヴで観たのは一昨年の外山明とのデュオ以来。変幻自在のエフェクター使いとプレイはデュオで観たときの印象と同様で、彼が向かう方向性をベースのナスノミツル、ドラムの芳垣安洋が瞬間的に汲み取りながら、ダイナミックに音楽を展開して行く緊張感は観ていてピリピリとしました。リハーサルでどこまで決めているのか、そうした内輪の事情はその場に出くわしたリスナーには伝わらない事柄ですが、耳にしつつある音楽はどんどん変容していく。しかし、目の前には静的な緊張が漂っている。内橋のギターは、時にアラン・ホールズワース、時にジョン・マクラフリン、時にビル・フリーゼル、時にマーク・リボー、時にアート・リンゼイ……を想起させながら、ジャズとロックのあいだにある時間軸を無視するかのように越境し、ノイズすれすれまで変調した重いコードや、単発的に空間に置かれた短い音で《場》を慣らしながら、およそジャズやロックといったジャンル的な文脈によって回収されるであろうクリシェによって怒濤の流れを作り出している、と感じます。このダイナミック/スタティックの二律背反が一種の芸能として成立させることが、アルタード・ステイツの比類無さを示している、と言って良いのでしょう。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...
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