内橋和久主宰によるインプロヴィゼーション・トリオ、アルタード・ステイツのライヴを観ました。内橋和久のギター演奏をライヴで観たのは一昨年の外山明とのデュオ以来。変幻自在のエフェクター使いとプレイはデュオで観たときの印象と同様で、彼が向かう方向性をベースのナスノミツル、ドラムの芳垣安洋が瞬間的に汲み取りながら、ダイナミックに音楽を展開して行く緊張感は観ていてピリピリとしました。リハーサルでどこまで決めているのか、そうした内輪の事情はその場に出くわしたリスナーには伝わらない事柄ですが、耳にしつつある音楽はどんどん変容していく。しかし、目の前には静的な緊張が漂っている。内橋のギターは、時にアラン・ホールズワース、時にジョン・マクラフリン、時にビル・フリーゼル、時にマーク・リボー、時にアート・リンゼイ……を想起させながら、ジャズとロックのあいだにある時間軸を無視するかのように越境し、ノイズすれすれまで変調した重いコードや、単発的に空間に置かれた短い音で《場》を慣らしながら、およそジャズやロックといったジャンル的な文脈によって回収されるであろうクリシェによって怒濤の流れを作り出している、と感じます。このダイナミック/スタティックの二律背反が一種の芸能として成立させることが、アルタード・ステイツの比類無さを示している、と言って良いのでしょう。
テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ
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