スキップしてメイン コンテンツに移動

進士五十八 『日本の庭園 造景の技とこころ』

日本の庭園 - 造景の技術とこころ (中公新書(1810))
進士 五十八
中央公論新社
売り上げランキング: 33021
著者は元東京農大の先生で、行政や官公庁の環境づくり・町づくりとかを検討するいろんな委員会で委員を勤めておられるお方。その道では大変偉い人物、ということになるのだが、この本はちょっと……。まず、人工的な都市設計に疲れた現代人には、自然の力が必要、自然の力があれば「ふるさと」を思うようなメンタリティも育つハズ、みたいな冒頭からしてイチイチ話がデカいし、こういう物言いは学問というよりスピリチュアルなレベルの話になってしまうので印象がよろしくなかったですね。

第一部は日本式庭園の発展史、第二部は日本式庭園の技術解説、第三部は日本の名園三十六景の案内となっているのですが、一番読み応えがあるのは第三部の観光案内みたいな部分。ただし、写真は白黒ですし、枚数も全然ないのでこれなら普通に観光ガイドを買ったほうがマシ。その他の部分も、話の編み目が大き過ぎてスカスカな感じがしました。第一部の歴史パートの見立ては「神仏の庭と人間のにわ」というタイトルから察せられるように「昔は黄泉の国だの浄土だのといった《異界》の表象として庭園が作られたけれど、近代に入ると西洋の庭園観が入ってきたりして、庭そのものの美が追求されるようになったんだよ〜」みたいな流れ。日本式庭園の根本は、アニミズム! と力強い主張がありますが、その主張を詰めるような記述に欠けるため、はあ……そうかもしれないですよね、で済んでしまう。というか、庭園の門外漢でも「まあ、そういうことはあるでしょう」と想定できる範囲で話がまとまってしまうので面白くない。

第二部も「あらゆる景観資源のなかで『水』は最高のものである」とか「垣根は人類史とともにある」とか、各項目の冒頭から飛ばし過ぎていてちょっと……。この飛ばしと、説明のアンバランスさが目立ちます。あと年寄りの先生が書いたこの手の本でときどき見られる、自分の研究結果が特別扱い丸出しで登場するのもねえ……。しかも、やっている調査や研究と、そこから分かったことも「え、こんなことしか言えないの!?」という逆に驚くべきモノ。一番笑ったのは以下の部分。
私たちの調査では、園路環境の違いが歩行速度に影響を与えることがわかっている。造園空間では、空間の質が高ければ高いほどゆっくり歩くということ。ゆっくり、ゆったりと景観や環境を味わうべく歩行速度が小さいのである。(P.108)
ふ、普通だ……!!! そりゃせっかく庭園に来てるんだし、質が高いところはじっくりと観てまわるじゃないですか……!!!!!! 他にも、庭の一坪あたりの石の数を計算して、石の数が少なければ少ないほど、庭が自然を抽象化して表現している、とか言ってたりするんだけども、その数値、それを言うのに必要か〜!? 学問の体裁を整えるためだけの数字じゃないの〜!? とか思いました。

はっきり言って雑な新書。何かのきっかけで庭に興味を持っても、これを読んだら逆に「え〜、庭ってこんなもんなの」と思って冷めちゃってもおかしくないですよ。庭を美的に表現する語彙が足りてないし、庭に日本の思想が宿っている、と言っても庭の姿からその日本の思想を読み解くだけの教養が筆者に足りてない感じがしますし。「日本庭園が良いのは、それが日本人の精神的原風景にマッチしてるからであーる!(日本人ならわかるよナ!!)」みたいなスピリチュアルな話しかしてないですもん。

日本庭園については、もっとガッツリ「日本庭園のイコノロジー」的な本があれば読みたいところです。そういうものが無かったら、カラー写真が入った観光ガイドを片手に実際に旅行したほうがずっと楽しそう。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...