ガルシア=マルケス
集英社
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「集英社『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む」13冊目は言わずとしれたコロンビアのノーベル文学賞受賞者、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』です。この作品を通読するのは二度目でしたが『百年の孤独』を読み直したときと同様、この作家の素晴らしい物語構成の上手さに魅せられてしまいますね。以前は『族長の秋』のほうが好きかも、と思っていましたが、今回の通読ではやはり『百年の孤独』のほうが好きかも、と思い直したり、カリブ海の島国の話だと思い込んでいたのは私の勘違いで、あくまでカリブ海に面した小国が舞台、だとか再発見が結構あって「ああ、前はこんなに読めてなかったんだな」とか思いました。とはいえ、とにかく終盤の物語が閉じていくときの物悲しさによって最後まで読者を引っ張っていくこのエネルギー、怒涛の勢いは「読み切った!」という快楽を高めている。だから、ガルシア=マルケスは読むのがやめられなくなってしまう。痺れるような導入部と、読後の快感が素晴らしいんですよ。
旧約聖書の登場人物のごとき恐ろしい高齢に達しても権力の座にあり続ける怪物的独裁者を主人公に据えたこの小説は、ラテンアメリカ文学のひとつの象徴とも言える「独裁者小説」に位置付けられましょう。集英社のこのシリーズでもアストリアスの『大統領閣下』があるように、そこでは強大な権力者によって人びとが蹂躙される様子が批判的なまなざしで描かれている。しかし、今『族長の秋』を読み直してみると、権力者ばかりが一面的に悪者に仕立て上げられているわけではないことに気づきます。とくに老齢の苦しみにありながら生き続けなくてはいけない大統領の姿は、権力者の意思とは関係なく出来上がっている権力(というシステム)のおぞましさのようなものを感じざるを得ません。大統領が何を思い、思わなくとも、彼が知らない間に独裁体制を維持するための施策が打たれている。テレビには毎日、大統領の政治的な振る舞いが捏造されて映し出される。権力者の主体が不在のまま、物事が勝手に進んでいく。
果たして誰がこの国の責任を持つのか、誰が悪いのか。アメリカ(合衆国)やヨーロッパの介入があり、すべてを奪われてしまう様子は現実のラテンアメリカ諸国の状況が反映された者でしょう。こんな国に誰がしてしまったのか。権力者の不在と虚構のなかで成立する存在のなかで、この責任問題が曖昧になっているように思われました。大統領が民衆に裁かれるのではなく、突然の死のあとで死体を禿鷲に貪られ朽ちていく。その死体はもはや誰にも大統領と判別できないのです。虐げられてきた民衆にすら大統領を裁く権利が与えられていないこの末路は、社会の責任を民衆にも負わせているようにも読める。誰が大統領を生きながらえさせたのか? が大いに問われるわけです。繰り返しましょう。こんな国に誰がしてしまったのか。その問いかけは、カリブ海に面した架空の小国にだけ投げかけられるものではないでしょう。
政治的な小説であると同時に、愛をめぐる小説であること。愛の能力が欠けているからこそ、その愛の目覚めが劇的に描かれます。大統領の母であるベンディシオン・アルバラードの朽ち果てる死体、唯一の正妻であったレティシア・ナサレーノとの交わり。このシーンの素晴らしさは何度読んでもおそらく色褪せることがないでしょう。
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