スキップしてメイン コンテンツに移動

集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#13 ガルシア=マルケス 『族長の秋』



族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)
ガルシア=マルケス
集英社
売り上げランキング: 382343


「集英社『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む」13冊目は言わずとしれたコロンビアのノーベル文学賞受賞者、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』です。この作品を通読するのは二度目でしたが『百年の孤独』を読み直したときと同様、この作家の素晴らしい物語構成の上手さに魅せられてしまいますね。以前は『族長の秋』のほうが好きかも、と思っていましたが、今回の通読ではやはり『百年の孤独』のほうが好きかも、と思い直したり、カリブ海の島国の話だと思い込んでいたのは私の勘違いで、あくまでカリブ海に面した小国が舞台、だとか再発見が結構あって「ああ、前はこんなに読めてなかったんだな」とか思いました。とはいえ、とにかく終盤の物語が閉じていくときの物悲しさによって最後まで読者を引っ張っていくこのエネルギー、怒涛の勢いは「読み切った!」という快楽を高めている。だから、ガルシア=マルケスは読むのがやめられなくなってしまう。痺れるような導入部と、読後の快感が素晴らしいんですよ。

旧約聖書の登場人物のごとき恐ろしい高齢に達しても権力の座にあり続ける怪物的独裁者を主人公に据えたこの小説は、ラテンアメリカ文学のひとつの象徴とも言える「独裁者小説」に位置付けられましょう。集英社のこのシリーズでもアストリアスの『大統領閣下』があるように、そこでは強大な権力者によって人びとが蹂躙される様子が批判的なまなざしで描かれている。しかし、今『族長の秋』を読み直してみると、権力者ばかりが一面的に悪者に仕立て上げられているわけではないことに気づきます。とくに老齢の苦しみにありながら生き続けなくてはいけない大統領の姿は、権力者の意思とは関係なく出来上がっている権力(というシステム)のおぞましさのようなものを感じざるを得ません。大統領が何を思い、思わなくとも、彼が知らない間に独裁体制を維持するための施策が打たれている。テレビには毎日、大統領の政治的な振る舞いが捏造されて映し出される。権力者の主体が不在のまま、物事が勝手に進んでいく。

果たして誰がこの国の責任を持つのか、誰が悪いのか。アメリカ(合衆国)やヨーロッパの介入があり、すべてを奪われてしまう様子は現実のラテンアメリカ諸国の状況が反映された者でしょう。こんな国に誰がしてしまったのか。権力者の不在と虚構のなかで成立する存在のなかで、この責任問題が曖昧になっているように思われました。大統領が民衆に裁かれるのではなく、突然の死のあとで死体を禿鷲に貪られ朽ちていく。その死体はもはや誰にも大統領と判別できないのです。虐げられてきた民衆にすら大統領を裁く権利が与えられていないこの末路は、社会の責任を民衆にも負わせているようにも読める。誰が大統領を生きながらえさせたのか? が大いに問われるわけです。繰り返しましょう。こんな国に誰がしてしまったのか。その問いかけは、カリブ海に面した架空の小国にだけ投げかけられるものではないでしょう。

政治的な小説であると同時に、愛をめぐる小説であること。愛の能力が欠けているからこそ、その愛の目覚めが劇的に描かれます。大統領の母であるベンディシオン・アルバラードの朽ち果てる死体、唯一の正妻であったレティシア・ナサレーノとの交わり。このシーンの素晴らしさは何度読んでもおそらく色褪せることがないでしょう。


族長の秋 他6篇
族長の秋 他6篇
posted with amazlet at 12.03.14
ガブリエル ガルシア=マルケス
新潮社
売り上げランキング: 382368

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」