解剖と変容:アール・ブリュットの極北へ チェコの鬼才ルボシュ・プルニーとアンナ・ゼマーンコヴァー
チェコ出身の画家アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)とルボシュ・プルニー(1961‐ )の作品を日本で初めて紹介する展覧会だそうです。兵庫県立美術館での展覧会は初めて伺いましたが、安藤忠雄が設計したとてもカッコ良い建物。内部はコンクリート打ちっぱなしで寒々しいことこのうえない感じではありますが、光の入り方などで印象が変わりそう。伺った日がたまたま天気が悪かったので、寒々しい印象のままのコンクリートは、まるで原子炉をイメージしてしまいます(ホンモノの原子炉を見たことはないわけですけれども)。
(晴れてる日に撮影した美術館)
アンナ・ゼマーンコヴァーは子どもを失ったり、流産したり、という痛みを伴った経験から次第に生きている子どもたちに対して偏執的とも言える愛情を注ぐようになり、精神を別な領域へと移してしまった女性だったようです。子どもたちが成長し、自立するようになるとその愛情を注ぐ対象が失われ、また別な不安定状態に陥る。そのとき、子どもから薦められて出会ったのが絵というあらたな注意の対象だった、ということです。暖かみのある色合いで描かれる、何らかの植物をモチーフにした(であろう)奇妙な物体のデザインが可愛らしかったですね。物体が意味するものの「無意味さ」「不可解さ」において、これはアートと言えども「おかんアート」の世界でもあるようにも思います。
ルボシュ・プルニーはゼマーンコヴァーの柔らかい感じとは対照的に、どこまでも攻撃的な作品が多かったです。この人もいろんな問題があって社会には適合できなくなり、年金を貰いながら好き勝手作品制作に打ち込み、遂には「芸術家」として認められたのだそう。この人の場合、自分は芸術家である、という自覚があり、執拗に自分が芸術家であるという証明をもらおうとしていたようで、そうした芸術家という名前への執着も病的であるのかもしれません。プルニーの作品は、コラージュに上に複雑に、何層にも渡って人体解剖図をモチーフにした線を重ね描いていく作品がメインで、その他に自分の血液を使用したものや、自分の瞼や唇、腕などを糸と針で縫い合わせていく過程を写真に収めたもの、ギリシャ彫刻やロダン、《マラーの死》など有名な芸術作品のポーズを真似て撮影した写真など、ショッキングなものから半笑いになってしまうモノまで展示されています。彼の作品に共通して言えることは、生命的なものが解剖学的に展開されることでしょうか。その極地たるものが、自分の両親の遺灰を丸いガラス・ケースに納め、それを中心にして、両親の生年から没年までの日数をカウント・アップしながら渦を描いていく作品でした。これは「そこまでやるか」という風に半分呆れてしまいたくもなる。
展覧会のもうひとつの目玉はアール・ブリュットの人びとを追った長編ドキュメンタリー『天空の赤』の上映です。こちらは時間の都合上、観られなかったのですがヘンリー・ダーガーなどを取り扱った面白そうな映画でした。ただ個人的に「アール・ブリュット」という言葉や、その言葉で名指しされた人びとを「鬼才」と呼ぶことについて疑問がないわけではないです。例えば、ズデニェク・コシェックという画家が取り付かれた「自分が世界の中心であり、自分の行為で天変地異がおこることもあるが、自分が作品を作り続けなければ世界が崩壊してしまう」というスティーヴ・エリクソンの小説のごとき妄想は面白いと思います。けれども、その面白さは単にキチガイってすげえな〜、と笑ってるだけなのか、という微妙にモラルが問われる部分でもあるのですね。で、そういうモラルが問われそうな部分、そういうのを面白がるのってどうなの、という部分に「アール・ブリュット」と名前を付けたらなんでもアリになってしまうんじゃないの、とか思ったり。
一方で「自分たちはコバイア星人。堕落した地球人どもに警鐘を鳴らすためにやってきた」とか「俺はジギー・スターダスト。スパイダー・フロム・マーズを引き連れて、地球に落ちてきたロックスター」とかいうある種の妄言と、コシェックが語る誇大妄想との違いとは何なのでしょう、とも思ってしまいます。ご存知の通り、コバイア星人やジギー・スターダストという語りは、設定であり、演技である。それはガチではない。逆にコシェックの場合はガチガチである。この対称関係のなかで「どうしてガチじゃないときは、安心して観ることができ、ガチの場合はこれは大丈夫なのだろうか、とちょっと怯んでしまうのだろう?」という疑問が浮かびます。アール・ブリュット(生の芸術)という言葉が指し示すモノとは、こうしたガチガチの衝撃なのでしょうか。
チェコ出身の画家アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)とルボシュ・プルニー(1961‐ )の作品を日本で初めて紹介する展覧会だそうです。兵庫県立美術館での展覧会は初めて伺いましたが、安藤忠雄が設計したとてもカッコ良い建物。内部はコンクリート打ちっぱなしで寒々しいことこのうえない感じではありますが、光の入り方などで印象が変わりそう。伺った日がたまたま天気が悪かったので、寒々しい印象のままのコンクリートは、まるで原子炉をイメージしてしまいます(ホンモノの原子炉を見たことはないわけですけれども)。
(晴れてる日に撮影した美術館)
アンナ・ゼマーンコヴァーは子どもを失ったり、流産したり、という痛みを伴った経験から次第に生きている子どもたちに対して偏執的とも言える愛情を注ぐようになり、精神を別な領域へと移してしまった女性だったようです。子どもたちが成長し、自立するようになるとその愛情を注ぐ対象が失われ、また別な不安定状態に陥る。そのとき、子どもから薦められて出会ったのが絵というあらたな注意の対象だった、ということです。暖かみのある色合いで描かれる、何らかの植物をモチーフにした(であろう)奇妙な物体のデザインが可愛らしかったですね。物体が意味するものの「無意味さ」「不可解さ」において、これはアートと言えども「おかんアート」の世界でもあるようにも思います。
ルボシュ・プルニーはゼマーンコヴァーの柔らかい感じとは対照的に、どこまでも攻撃的な作品が多かったです。この人もいろんな問題があって社会には適合できなくなり、年金を貰いながら好き勝手作品制作に打ち込み、遂には「芸術家」として認められたのだそう。この人の場合、自分は芸術家である、という自覚があり、執拗に自分が芸術家であるという証明をもらおうとしていたようで、そうした芸術家という名前への執着も病的であるのかもしれません。プルニーの作品は、コラージュに上に複雑に、何層にも渡って人体解剖図をモチーフにした線を重ね描いていく作品がメインで、その他に自分の血液を使用したものや、自分の瞼や唇、腕などを糸と針で縫い合わせていく過程を写真に収めたもの、ギリシャ彫刻やロダン、《マラーの死》など有名な芸術作品のポーズを真似て撮影した写真など、ショッキングなものから半笑いになってしまうモノまで展示されています。彼の作品に共通して言えることは、生命的なものが解剖学的に展開されることでしょうか。その極地たるものが、自分の両親の遺灰を丸いガラス・ケースに納め、それを中心にして、両親の生年から没年までの日数をカウント・アップしながら渦を描いていく作品でした。これは「そこまでやるか」という風に半分呆れてしまいたくもなる。
展覧会のもうひとつの目玉はアール・ブリュットの人びとを追った長編ドキュメンタリー『天空の赤』の上映です。こちらは時間の都合上、観られなかったのですがヘンリー・ダーガーなどを取り扱った面白そうな映画でした。ただ個人的に「アール・ブリュット」という言葉や、その言葉で名指しされた人びとを「鬼才」と呼ぶことについて疑問がないわけではないです。例えば、ズデニェク・コシェックという画家が取り付かれた「自分が世界の中心であり、自分の行為で天変地異がおこることもあるが、自分が作品を作り続けなければ世界が崩壊してしまう」というスティーヴ・エリクソンの小説のごとき妄想は面白いと思います。けれども、その面白さは単にキチガイってすげえな〜、と笑ってるだけなのか、という微妙にモラルが問われる部分でもあるのですね。で、そういうモラルが問われそうな部分、そういうのを面白がるのってどうなの、という部分に「アール・ブリュット」と名前を付けたらなんでもアリになってしまうんじゃないの、とか思ったり。
一方で「自分たちはコバイア星人。堕落した地球人どもに警鐘を鳴らすためにやってきた」とか「俺はジギー・スターダスト。スパイダー・フロム・マーズを引き連れて、地球に落ちてきたロックスター」とかいうある種の妄言と、コシェックが語る誇大妄想との違いとは何なのでしょう、とも思ってしまいます。ご存知の通り、コバイア星人やジギー・スターダストという語りは、設定であり、演技である。それはガチではない。逆にコシェックの場合はガチガチである。この対称関係のなかで「どうしてガチじゃないときは、安心して観ることができ、ガチの場合はこれは大丈夫なのだろうか、とちょっと怯んでしまうのだろう?」という疑問が浮かびます。アール・ブリュット(生の芸術)という言葉が指し示すモノとは、こうしたガチガチの衝撃なのでしょうか。
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