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首都を歩こう《Tokyo Walkers》第4回 新緑と廃墟と飛行場と……の巻(東府中-調布)

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毎度御馴染み流浪の散歩サークル《Tokyo Walkers》の第4回イベントが2012年4月21日に開催されました。今回は東府中を出発、府中の森公園、浅間山公園、多磨霊園、野川公園、調布飛行場を通過して、深大寺で蕎麦を食べる! というコース。桜はほとんど残っていませんでしたが、新緑が萌えはじめるなかを進みました。

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出発後数分で、何らかのスタンド攻撃では、と思わせるほどのスゴい表面張力ラーメンを発見。今日は何かがあるのでは……という予兆のようでした。

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バグっている看板を横目に、府中の森公園へ。

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この桜並木。桜のシーズンにあたっていたら、散歩どころではない感じの人ごみだったでしょう。歩きやすいシーズン(あまり人がいない)を狙ってイベントを開催、あえて何も無さげなところを攻める、葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。

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その代わり八重桜はちょっとだけ見れました。

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府中市美術館では、現在『三都画家くらべ』という企画展を開催中。今回はスルーでしたが、ちょっと気になる展覧会。建物もカッコ良いですね。

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府中の森公園を抜けると、府中通信施設の周辺に出ました。柵に囲まれた広大な土地のなかに、さまざまな廃墟などが存在するこのスポットは、在日米軍が一部を現在も運用している施設だそうです。鉄条網と生い茂る木々に遮られて現れる廃墟は、都市のなかに存在する遺跡のようです。

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もちろん立ち入り禁止ですので、侵入したら通報されます。「報」の字を間違えて書く人が通報します。

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しかし、この巨大なパラボラアンテナは圧巻。

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廃墟周辺を離れ、浅間山公園に入っていきます。標高約80メートルとはいえ、それなりに山っぽい感じの公園。案内板などがあまり出ていないので、ちょっと迷いそうになります。

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アンテナはここからも見える。

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マイナスイオンが全開になっていそうなパワースポットに、ヴァイオレンスな雰囲気を醸し出す看板が。府中、怖い。

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頂上。頂上には小さな祠がありました。

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山を下って、獣道っぽいところを進む藤岡弘、探検隊風の一行。

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薮を抜けた瞬間に、目の前に広がるのは広大な墓地。そう、ここは50万の魂が眠る場所、多磨霊園。薮から突如、この光景になるのはかなり衝撃的。

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多磨霊園を抜けると、府中の免許センターの近くに出ました。近くには武蔵野公園があります。このあたり、公園ばっかり。

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スタートから約2時間が経過し、若干疲れてきているメンバー。ソフィア・コッポラっぽい。お腹も減ってきましたが、この周辺にはまったくお店がない。

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「歩けば、そのうちみつかるだろ」と投げやりに、野川沿いを進みます。結構肌寒い感じの日だったのですが、達人風の釣り人や水遊びをしている子どもたちがいっぱい。野川公園のほうに入っていくと、バードウォッチングをしている人やバーベキューをしている家族連れもいました。

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野川公園の売店にてようやく休憩。水や、命の水や!

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すぐ近くには調布飛行場があり、休憩中にはセスナ機が真上を飛んでいく爆音が体験できました。丘の上が滑走路を見渡せる絶景スポットになっています。ベンチもあるので、飛行機待ちにもピッタリですが、ひとりでベンチに座っていると、まるで文明の終焉を見届けるかのような物悲しい雰囲気がでてしまうので注意。

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飛行機の駐車場みたいなところ。遠くには味の素スタジアムが見えます。

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そして再び、野川沿いを進みます。菜の花が満開。川沿いを進めば、ゴールの深大寺周辺に辿りつけます。

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ゴール。お寺には行かず、手打ち蕎麦のお店「湧水(ゆうすい)」で9割蕎麦を堪能。おつかれさまでした。

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その後、さらにバスで調布へ移動し、鍋料理のお店「甲州屋」で鴨鍋を堪能。おつかれさまでした。結局、今回も歩いた分飲んでましたね……。

およそ10kmの道のり。今回もこのブログ記事を読んで参加してくださった新メンバーがいらっしゃいました。流浪の散歩サークル《Tokyo Walkers》では随時新メンバーの募集をおこなっております。職業・経歴・年齢などを問いません、普段は歩かないところを歩きながら和やかに会話したりすることに興味がある方、各イベントの参加はその都度任意ですのでお気軽にFacebookのグループに参加申請を出してみてください。システム・エンジニア、医学生、デザイナーなど、多様なメンバーでお待ちしております。次回は、時期未定ですが川越あたりか、羽田空港周辺を歩くプランを企画中です。

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